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今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第2回)

第1章       《イヨチコタン》違星北斗の幼年期

 

1 違星北斗の誕生

 

違星北斗はいつ生まれたか?

 アイヌ歌人として知られる違星北斗は、北海道の余市(よいち)町で生まれた。

 1901年(明治34年)、もしくは1902年(明治35年)のことである。

 現在、最も入手しやすい著作『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)の年譜には次のように書かれている。

 

 一九〇二年 一月一日、北斗(本名瀧次郎)、父甚作(文久二年一二月一五日生)と母ハル(明治四年九月生)の間の三男として、余市郡余市町大字大川町に生まれる。

 

 現在ではこの「1902年(明治35年)1月1日生まれ」が定説となっていて、人名事典などにもそのように掲載されている。

 この生年月日は、違星北斗の調査を行った早川勝美氏が1967年(昭和42年)に発表したものである。

 

 北斗の戸籍を調べているうちに、明治三十四年に生まれると、どの記録にも出ているが戸籍簿では明治三十五年一月一日出生となっている。出生届は明治三十五年一月九日、父違星甚作、同亡母ハル参男となっている。

(早川勝美より谷口正氏への書簡、「北斗についての早川通信」 *1)

 

 もともと北斗は「明治34年生まれ」とされていたのだが、調査のために余市を訪れた早川氏が役場の除籍簿を調べたところ、北斗の戸籍上の生年月日が「明治35年1月1日」であること、また、その出生届が「明治35年1月9日」に提出されていることを確認し発表したのである。

 その調査結果が草風館版『違星北斗遺稿 コタン』84年版の年譜に採用され、❝公式データ❞となったのだ。

 だが、早川氏は次のようにも書いている。

 

「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る梅津トキ氏によると「十二月の暮も明けた頃」であったとしている。

(「違星北斗の歌と生涯」『山音』48号、1967年10月、山音文学会)

 

 生前の北斗自身は、「1901年(明治34年)生まれ」と自分の生年を言っていた。北斗の死の翌年――1930年(昭和5年)に発行された最初の『違星北斗遺稿 コタン』(希望社版)でもそうなっている。

 しかし北斗の親戚の梅津トキ氏が「十二月の暮も明けた頃」という、「明治34年の暮れ」とも「明治35年の初め」ともとれる曖昧な言い方での証言を残しているのが気になるところである。北斗は1901年(明治34年)の年末から1902年(明治35年)の1月1日(明け方?)までのどこかのタイミングで生まれたのであろう。北斗自身の認識では「1901年(明治34年)の生まれ」であるようだが、役所には「1902年(明治35年)の1月1日生まれ」として届け出た、ということではないだろうか。

 この連載ではできるだけ北斗の自己認識を尊重したいので、北斗が実際に使用していた生年月である「1901年(明治34年)12月生まれ」説を採りたいと思う。

 

*1 1966年(昭和41年)5月に札幌市在住の早川勝美氏が勇払郡穂別町の研究者・谷口正氏に送った手書きの手紙のこと。早川氏は余市町で北斗の親戚である梅津トキ氏から北斗の生い立ちや家族関係についての聞き取りを行っており、手紙にはその時の内容が書かれている。後に「違星北斗の会」を主宰し北斗の資料を収集した木呂子敏彦氏が、この手紙をワープロ打ちし、「北斗についての早川通信」という表題をつけた。木呂子敏彦氏については後述。

 

 ●違星北斗の「本当の名前」は

 誕生日と同様に、広く知られている違星北斗の本名「瀧(滝)次郎」(たきじろう)についても、「本来の名前ではない」という証言がある。

 

 北斗の姓名は違星瀧次郎といい、北斗は号である。然し、瀧次郎というのは、実は誤まってこうなったので「竹次郎」というのが親のつけた本当の名前であった。

 彼の長兄は「梅太郎」といい、それで彼が生まれた時、親は「松竹梅」から来たものか、「竹次郎」と名づけた。ただ役場にとどけ出る手続きが面倒なので、これを代書人に依頼したのだが、その時口頭で「タケジロウ」といったものらしい。その時の発音が代書人の耳には「タケジロウ」でなくて「タキジロウ」と聞こえたのである。そこで「ああよろしい」というわけだ。早速竹次郎が瀧次郎と変って届け出られてしまった。かくて、瀧次郎は終生の彼の名前となってしまったのである。

 事実、彼の両親をはじめ、アイヌの仲間たちは、皆彼を北斗とも瀧次郎ともよばず「タケ」とよんでいた。私は何回となく「タケ タケ」と話しかけているアイヌを見たものだ。

 このことは、私は北斗自身の口からも聞いているので、間違いないことである。

(古田謙二*2から湯本喜作*3への書簡、「湯本喜作『アイヌ歌人』について」*4)

 

 古田謙二は余市小学校の訓導(教員)で北斗が親しくつきあった和人の友人である。

古田によると違星北斗の本当の名前は「竹次郎」であり、それが代書屋への伝達ミスで「瀧次郎」と戸籍に登録されてしまった、という。

 北斗は親しい家族やアイヌの友人たちからは「竹次郎」「タケ」と呼ばれ、学校時代の先生や職場などの和人社会では戸籍名である「瀧次郎」と呼ばれることになった。*5

 明治の後期に生まれた北斗は、祖父・万次郎(アイヌ名ヤリへ)や父・甚作(アイヌ名・セツネクル)の世代のように「アイヌ名」を持たなかった(と思われる)。しかしある意味、祖父や父と同様に、アイヌ社会(コミュニティ)にのみ通じる名前(タケ)と、和人社会向けの名前(瀧次郎)の二つを持っていたともいえる。

 「アイヌ社会用」「和人社会用」の二つの名前の間でアイデンティティーが揺れ動いたと思われる竹次郎/瀧次郎は、のちに自らの意志で三つ目の名前を持つことになる。すなわちそれが「北斗」である。「違星北斗」と名乗った「竹次郎/瀧次郎」は、二つの名前―二つの世界を文学によって自分の中で統合していく――。

 

 このように、違星北斗については、その生年月日や本名といった基本的な情報でさえ曖昧にされたままにされてきたのである。わたしが「違星北斗北斗研究」の必要性を訴えるゆえんである。

 

*2 古田健二は余市小学校の訓導(教員)で、のちに句誌「緋衣」を主宰した。古田を北斗の恩師とする資料があるが、古田は年齢が二、三歳北斗より上であることから、共通の趣味である俳句でつながった、北斗にとってはアイヌ民族に対してシンパシーのある和人の年上の友人、といったところだと思われる。のちに古田は1930年(昭和5年)版の『違星北斗遺稿 コタン』の原稿を整理をした。古田と北斗の関係については項を改め詳述する。

*3 湯本喜作は1963年(昭和38年)に『アイヌ歌人』という本を出版した。その本を湯本が北斗をよく知る古田謙二に献本したところ、古田から北斗に関する間違いなどを指摘した手紙がきた。さらにその手紙にはこれまで知られていなかった北斗に関することも書かれていた。『アイヌ歌人』については項を改め詳述する。

*4 古田謙二と湯本喜作の書簡は、昭和30年前後に『違星北斗の会』を主宰し、違星北斗の資料収集と顕彰活動につとめた木呂子敏彦氏のご子息から譲り受けたもの。ワープロ打ちされた書簡には、木呂子氏によって「湯本喜作『アイヌ歌人』について」という表題をつけられている。『違星北斗遺稿 コタン』では知ることができなかった数多くの事実が記されているが、個人情報を含んでいるため全編をそのまま公開することは難しい。

*5 この「竹次郎」という名前は、北斗も好んで名乗っていたようで、金田一京助の『あいぬの話』に「竹次郎」の表記が見えるほか、雑誌『自働道話』大正13年5月号と同11月号には「竹二郎」の名前での投稿も見える(「竹二郎」の「二」が北斗によるものか、「次」の誤植かは不明)。

 

 

2 余市コタン

 

イヨチコタン

 違星北斗が生まれた北海道余市(よいち)町は、日本海に突き出た積丹半島の付け根にあり、小樽より西に20キロ、札幌からは50数キロの距離にある。

余市(ヨイチ)」はアイヌ語地名「イヨチ」の転訛で、「それ(蛇)が多い所」が由来だとされる。

 

 海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。

 イヨチコタン(余市村)は其の頃、北海道でも有名なポロコタン(大きな村)でした。

違星北斗「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」)

 

 北海道がアイヌの人々の天地であった時代、「イヨチコタン」は北斗のいうように、ポロコタン(大きな村)だった。その名は他の地域のアイヌにも知られており、遠く離れた太平洋側のアイヌの伝説にも語られている。

 また歴史の上でも、「コシャマインの戦い」や、「シャクシャインの戦い」といった和人とアイヌとの戦いの中にも余市アイヌが登場することから、古くから知られているコタンであった。

 その余市町を流れる余市川の河口近くに、北斗が生まれ育った大川町の「コタン」があった。

 「コタン」といっても、その言葉でイメージされるような――たとえばアイヌ文化を紹介する資料や漫画『ゴールデンカムイ』に登場するような「茅葺き屋根の伝統的なアイヌの家屋(チセ)が並ぶ風景」ではなかった。

 北斗自身、生まれ育った余市のことを次のように紹介している。

 

 私は違星といふアイヌです。私が生れた所は札幌に近い余市(よいち)といふアイヌの村落ですが、この村落は早く和人に接触したのと、そこから中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出したのとで、アイヌの村落中で一番能く日本化した所です。小民族が大民族に接触する場合にはどこでもさうでせうが、そこには幾多の悲惨な物語が伝へられてゐます。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」*6)

 

 余市や小樽のような日本海側の地域には、漁業、とりわけ「鰊(ニシン)漁」という巨大な産業があり、古くから和人と交易していたアイヌの人たちは、後に直接漁場で使役されるようになっていった。

 かつて余市中に散在していたアイヌコタンは、いつしか和人の街に飲み込まれてゆき、北斗が生まれた「大川コタン」も、和人の市街に囲い込まれていた。

 北斗の家もアイヌ特有のチセではなく、和人の労働者と同様の板張り・畳敷きの家であった。ただ、円状に並ぶ家の配置と、熊の檻、そしてアイヌが神々に祈りを捧げるために設えた祭壇が、かろうじてそこがアイヌコタンであったという痕跡を残していた。

 しかし彼らのコタンが「日本化」したといっても、全く和人と同じような生活をしていたわけではなかった。「コタン」ではアイヌの信仰が守られ、アイヌ語も日常的に話されていた。イオマンテ(熊送り)などの祭りも行われていた。

 彼らがアイヌ文化やコミュニティを失わずにいられたのは、北斗がいう「中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出した」ということも関係していると思われる。中里徳太郎は余市コタンの村長格で、北斗の叔父にあたる。余市アイヌの互助組織をつくって教育や授産、蓄財に力を尽くしたというこの中里徳太郎については、北斗自身が詳しく語っているので項を改めて詳述する。

 北斗の生家は漁師を家業にしていた。「違星漁場」と名付けたバラックの漁舎を持ち、漁船も所有していたようだが、生活は決して楽ではなかった。

 

 けれどもいゝ漁場は大方和人のものになつてゐたので、生活の安定はとても得られませんでした。一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやつと開拓して得たと思ふ頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷つてゐるアイヌも大勢ゐました。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」より)

 

 違星北斗が生まれた時代、社会には歴然としたアイヌへの差別があった。

 

*6 伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(『沖縄教育』1925(大正14)年6月号。『伊波普猷全集』11巻所収)は、大正14年3月16日に、金田一京助に連れられて参加した「第2回東京アイヌ学会」で違星北斗が行った講演を伊波普猷が記録したもの。

 

 ●余市アイヌの伝説・昔話

 和人街に囲まれた余市の旧コタンの中で、当時の余市アイヌの人々はアイヌの文化をできる限り守ろうとした。余市コタンには、彼らのルーツや古い生活に関わる伝説がいくつも残っており、幼い北斗も祖父や父母から、余市アイヌの伝説や違星家の先祖にまつわる昔話を聞いて育った。のちに北斗や彼の兄・梅太郎がそうした昔話について触れている。*7

 たとえば違星家に伝わる伝承に、祖先がオタルナイより来た、というものがある。オタルナイ(小樽市銭函)にいた先祖が、海の神(シャチ)の怒りをかい、海を漂流して、イヨチコタン(余市)にたどりついた、という話である。

 また、先祖が漁の途中で「千里眼」の状態になったが、その秘密を他の人に話してしまったために呪われて、違星家の男児は代々病弱になってしまったという話もある。

 さらに、沙流川流域(太平洋側)のアイヌの一団が余市を襲撃したが、コタンコロカムイ(フクロウ神)によって救われたという話もあり、余市コタンが古くから他地域のアイヌとの交流や衝突があった場所であることがわかる。

 北斗の家には神々を祀る祭壇(ヌササン)があり、そこにはイナウ(北斗は「イナホ」「イナヲ」と表記)や弓矢・鉄砲・槍・刀などとともに熊の頭骨があった。神聖なものとして飾られていたというが、北斗の青年期にはその祭壇も朽ち果ててしまっていたという。

 そんな違星家の祭壇には他に、一本の「槍」が近年まで飾られていたという証言がある。その槍は祭りの夜にコタンに現れた巨大な人食いの魔物(人食い熊とも)を倒したもので、「ワタナベのヤリ」(由来不明)と呼ばれていたという。

 

*7 違星家の昔話については次のような資料を参考にされたい。

余市アイヌの伝説」『北海タイムス昭和5年9月 (北斗の兄・違星梅太郎 談)

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_01ee.html

北大講演会資料「違星北斗童話集」(余市の伝説でないものもあり)。

http://iboshihokuto.o.oo7.jp/iboshihokutomukashibanashi.pdf

 

 ●「違星」という姓の由来

  違星北斗の「違星」という極めて珍しい姓に関しては北斗が「我が家名」で語っている。

 

 明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の構矢となったのである。

 戸籍を作った当初はアイヌ独特の名附け方法で姓名を決めたものも少くない。万次郎はイソツクイカシヘ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜イコンリキの祖先伝来のエカシシロシが※であった。これをチガイに星、「違星」と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。

 私はこの急にこしらへた姓名が、我が祖先伝来の記号からその源を発してゐたことは誠に面白く又敬すべきであると心ひそかにほゝ笑むのである。

 (「我が家名」『違星北斗遺稿コタン』所収、初出『小樽新聞』昭和2年12月25日)

 

 違星家の姓の由来は入り組んでいる。

 祖父・万次郎の父はイコンリキ(伊古武礼喜)といった。アイヌ社会ではエカシシロシと呼ばれる父系に伝わる家紋がある。そのエカシシロシ(家紋)が「※」だったと「我が家名」には書かれている。しかしこれは間違いである。

初出の『小樽新聞』では

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となっていた。この家紋が希望社版の編集の際に、「※」にされてしまい、その間違いがそのままその後の希望社版にも受け継がれてしまったようだ。

 また、引用した文章の「エカシシロシ」という言葉も初出の『小樽新聞』では「イカシシロシ」*8である。

 違星北斗余市アイヌの言葉を文字で書く時に、この「イカシ」のように余市で実際に話されていた発音で書いているようなのだが、彼の死後、それを知らない編集者などの手で、「エカシ」というよく知られた「標準的アイヌ語」の表記に直されてしまうことがある。それによってアイヌ語の「余市方言」のようなものが消されてしまっているとすれば、とても残念なことである。この稿では北斗の用いた「イカシシロシ」を使用したい。

 さて、違星家は、養子に入ったイソヲク(上の引用文では「イソツク」と誤記されている)の家なのだが、「違星」という姓は、万次郎の実父のイカシシロシから来ている。*9

 また、もともと

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の印は、日本の家紋用語で「×」の部分を「チガイ」と呼び、「・」の部分を「ホシ」といった。そこから万次郎の実父は「チガイボシ」と読ませるつもりだったらしい。しかし、「違(ヰ)+星(ホシ)」(=イボシ)と読みならされるようになってしまったということである。

 

●祖父・万次郎

  違星北斗の祖父・万次郎は、1872年(明治5年)、アイヌ初の留学生の一人として、東京に留学させられたアイヌの若者のうちの一人。成績優秀で、後に北海道庁に雇われたという。

 江戸時代末期から明治・大正を生きた祖父・万次郎の人生は、そのままアイヌの激動の時代に重なっている。

 万次郎は明治初頭、新政府のアイヌ民族同化政策のもと、若き日を留学生として東京の開拓使学校で学んだ。優秀な成績をおさめ、その後、道庁の役人になり、普通のアイヌよりも早く姓を名乗ることを許されたと自慢げに語っている。しかし、にもかかわらず、晩年はコタンに戻って他のアイヌとともに苦しい生活を強いられた。

 ほろ酔いで孫たちに東京時代の思い出を語ったという万次郎の人生は、政府の同化政策の栄光と挫折を象徴している。幼い北斗は、この万次郎がほろ酔い加減で語るモシノシキ(国の真ん中=東京のこと)時代の昔話を祖父自身から聞き、東京に憧れを抱くことになった。その東京への思いは北斗の中で生き続け、祖父の留学から50年後、北斗はついに東京の土を踏むことになる。

 次回は、そのような東京への憧れを北斗に抱かせたアイヌ初の東京留学生であった祖父・万次郎の生涯を追ってみたい。

 

*8 「イカシシロシ」(翁の印)は男系に伝わる紋で、同様に女系には「フチシロシ」(媼の印、北斗はフジシロシと表記している)という紋があった。

*9 北斗の曽祖父イコンリキ、イソヲク(イソオクとも)の名は、余市の場所請負人であった林家(松前藩から委託を受けて、アイヌ民族との交易を差配していた商家)の記録に「林家文書」に残っている。

「林家文書」の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」(1859年)に、

 

 イコンリキは役職「脇乙名」(副首長、指導者「乙名」に次ぐ副指導者といった立場)、45歳。

三男として北斗の祖父・万次郎の幼名「ヤリヘ」の記述あり。

 

 イソヲクは役職「土産取」、年齢49歳。妻「かん」と、娘「てい」(万次郎の妻、北斗の祖母)の名も見える。

 この「乙名」「脇乙名」「土産取」といった役職は、交易に関わる役職で和人側が与えたもので、旧来のアイヌコタンの中での立場を表すものではないが、時代とともに立場を表すものになっていったと思われる。