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現在『今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯』を連載中です。更新情報は寿郎社webサイト・Twitterでお知らせします。

「今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯」の連載にあたり

 

2018年12月より在野の違星北斗研究者である山科清春氏の連載コラムを〈寿郎社webサイト――はてなブログ〉で始めます。1929年(昭和4年)に夭折したアイヌ歌人の生涯を最新の研究成果をもとに紹介していきます。ご期待ください。なお連載のタイトルは、北斗の歌「人間の誇は何も怖れない 今ぞアイヌのこの声を聞け」よりとりました。

「今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯」(第6回)

 

第1章 《イヨチコタン》 違星北斗の幼年期

 

4 父・甚作――「アイヌらしいアイヌ」(つづき)

 

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違星北斗余市アイヌの系譜

 

●「地引網」と「鰊」

 違星甚作の本業は漁師だった。

 大所帯であった違星家*1を支えるために働きづめで、のちには子の梅太郎や北斗もそれに加わった。

 

「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。いい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした」。*2

違星北斗の言葉、伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」より)

 

「生活の安定はとても得られ」なかったと北斗が言うように、アイヌは、漁場でも差別的な待遇を強いられた。

 江戸時代、松前藩から余市の漁場経営を請け負っていた商人・林家*3は、明治になってもそのまま大網元として、余市の漁場を牛耳り続けた。

 江戸時代、利益を追求することしか考えない、商人の「支配人」が差配する漁場で、アイヌの人々は、文字通り「支配」されていたのだが、明治になっても、引き続き和人が差配する漁場で働かなければならず、アイヌであるという理由だけで待遇に差があったり、酷使されたりした。

 待遇面だけでなく、「アイヌである」ということを理由に、地元の和人や、出稼ぎ漁夫などに侮蔑されたりすることも多かった。

 

 だんだん魚は少なくなって昔の様な大漁は出来なくなったばかりではなく 漁業法はやかましくなりまして、鱒(ます)は禁漁となり鮎(あゆ)は種子川の名に禁漁となり 鰛(いわし)も鯖(さば)もすべて 許可なければ漁具は取り上げられ 外(ほか)に罪人として罰金を納めなければならない。

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎を偲びて」)

 

 父はまた猟師なのでありましたが、それも官札なければ猟に行けない。

 そこで私は考えました。税金税金で何んでも税金でなければ夜も明けないようなものだ。我々は夜となく昼となく面白くもない暮らしをしている(後略)

(同)

 

 かつて、アイヌが自由に獲ることができた魚や獣が乱獲により数が減り、その上、後から入ってきた和人が勝手に決めた法律によって規制され、違反すると罰金が課せられ、また税金を取り立てられる。

 春の鰊(ニシン)、秋の鮭(サケ)、それ以外の時期には、甚作は地引網漁などをしたが、それでも生活は楽にならなかった。

 甚作は沿海州樺太カムチャッカなどに出稼ぎ漁業に行ったり、土木工事や造林などの出面にも赴いていた。

 甚作はそれらに加え、樺太に熊取りに行くこともあったため、不在がちで、北斗たち子どもの世話は主に養父・万次郎に任せられていた。*4

 のちに、北斗の和人の友人・古田謙二にも、北斗が

 

「漁場に於ける我々の酷使振りはどうだ」

(古田謙二「落葉」)*5

 

と、漁場におけるアイヌの待遇に対して、怒りを発露しており、大正や昭和初期になってもその境遇は変わらなかった。

 

*1  甚作と妻・ハルの間には、長男・梅太郎、長女・ヨネ、三男・竹次郎(滝次郎=北斗)、三女のツネの4人の子どもがいた。(北斗の兄である次男は生まれてすぐに亡くなり、弟である四男の竹蔵、五男の松雄、六男の竹雄はいずれも子どものときに亡くなっている)。

さらに、世帯は別だが、養父・万次郎とその娘らもいた。

*2 違星家は「シリパ岬」の裏側の「ウタグス」(歌越)という場所に「違星漁場」と名付けた漁場を持っていた。(金田一京助から違星北斗へのハガキ、昭和2年4月26日付に「違星漁場」の住所表記あり)。余市郷土史家・青木延広氏によると、船も持っていたようだが、あまり良い漁場ではなかった、という。違星家は自営の漁業者であり、かつ雇われて漁をすることもあったようだ。

*3 松前藩は北海道内を「場所」に区切り、その地域でのアイヌとの交易を、商人に請け負わせた。当初は「オムシャ」と呼ばれるアイヌとの交易を行っていたが、のちに直接的にアイヌを使役して漁業を経営するようになり、地域の行政も差配するようになる。

*4 違星北斗の小学校の通知簿には、保護者名として父・甚作や母・ハルの名はなく、祖父・万次郎の名前が記されている。不在がちの甚作に比べて、「学」のある万次郎が、子どもたちの勉強の面倒も見ていたようだ。

*5 北斗の友人で余市小学校訓導の古田謙二が違星北斗を追憶する手記。「よいち」昭和28年8月号に「違星北斗のこと」として掲載の後、「落葉」に改題されて昭和29年発行の「違星北斗遺稿集」(違星北斗の会)に掲載された。

 

 

●零落のイヨチ城主

 漁労の傍らに農業を行おうとする者もいたが、そこもまた、和人による激しい収奪の現場となっていた。

 

 汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

 

 そもそも、元はアイヌの大地であったものが、政府によって土地が取り上げられてしまい、わずかに分け与えられた新たな土地も、苦労して開墾した頃に、狡猾な和人に騙され、「合法的に」和人に払い下げられてしまう……。

 こういった和人による詐欺行為は、北斗の周囲でも度々起きていた。

 ここに紹介するレポートは、1914年、大正3年にある新聞記者が、余市のオテナ(乙名、アイヌの指導者)ノタラップ(和名・玉三郎)の家を訪ねた時のものである。

 

 蝦夷松(えぞまつ)の林、楡(にれ)の森、千古、斧鉞(ふえつ)*6の味を知らぬ懐中山に、巨熊の群を呑んでいた。

 余市のコタンに先人コロポクル*7が砦(チャシ)を構え、石鏃、石槍*8を飛ばして高嶋グル*9と戦ったのも今は「夏草や武士どもが夢の跡」と化し、わずかに余市アイヌの後裔四十人が、哀れな末路を大川縁に止めている。(略)

 記者は陰雨煙る十二日の午後(略)玉三郎の家を訪ねた。(略)

 生憎オテナは不在であったが、刺青*10美しいカン夫人が、ぶすぶす燻る、大なる炉辺に、針仕事をしていた。(略)

 壁上にぶら下っている熊の皮、カンジキ、猟銃、オロチョン*11のスキー、アマポ*12等が、蝦夷染みた気分を与えて、心は幾百年の昔に曳かれ行く。

 メノコ*13は清澄な発音で、巧みに和語を交ぜ、同族の哀れな末路を物語る。

 彼らの先祖のいた頃は、大川べりは一面の笹原で、日夜巨熊が出没していて、無造作にアマポにかかる。

 大川橋下などは、鱒が群をなしていたので、これも手掴みで獲れる。

 春は磯一面、鰊の山を築き、秋は鮭で川が蓋になるという時代。

 いわゆる海の幸、山の幸はいたるところに充(み)ちあふれていたのだ。(略)

 そのうちに続々、内地からシャモ*14が渡って来て、木を伐り、山を拓き、田を耕し、だんだん彼らの土地を蚕食して、遂には寸地も余さず、シャモの侵略するところとなった。(略)

(シャモは)最後にオテナの土地に手を触れた。

 さすがは忍路、高嶋にその武勇を誇ったオテナだ、断固としてシャモの侵略を許さなかったが、蜜のやうな甘言に欺かれ、所有の田畑は挙げてシャモの手に帰し、今では狭い土地を借り受けて侘しい暮しをしていると。

 綿々たる大川は怨みよりも深い。

「聴いてみると気の毒な話だね」

「シャモは、ずるい。皆、アイヌをだました」

「どんな工合(ぐあい)に瞞(だま)すのか?」

アイヌには証文がないから、お上(かみ)に願って取るのです」

という、膝には涙の玉が光っていた。

(「小樽新聞」大正3年6月24日「滅び行く余市大川端のアイヌコタン(上)」より)*15

 

 このノタラップ*16の家系は、代々余市コタンの乙名を務めてきた、余市でも最も由緒のある家系である。代々余市の村長を務め、寛文9年の「シャクシャインの戦い」の際に大きな役割を果たした余市の総大将「八郎右衛門」*17の末裔であるという。*18

 一族は、かつてはフルカ(天内山)に巨大なチャシ(城砦)を構えていた。後の時代も、同じフルカチャシの近くに60坪の大きな屋敷を持ち、周辺のコタンから指導者が集まって重要な話し合いはここで行われたという。*19

 イヨチコタン繁栄のシンボルともいえる「フルカチャシ」は、あるいは日高など他の地域のユカラ*20にたびたび登場する、日本海側の一大勢力・イヨチコタンのイメージにも影響を与えているかもしれない。あるいは、和人の記した伝承などではロマンチシズムを込めて “王城”*21などと書かれることもあった。

 そのフルカの城の“城主”の末裔が、先の新聞記事で紹介されたノタラップなのだ。

 この時代(大正3年)には和人に土地を騙し取られて、今は余市の大川の川べりに住み、わびしい暮らし向きとなっていた。

 大正3年というと、北斗が12歳でちょうど小学校を卒業した頃である。同胞で、誇るべき大指導者の一族の「惨状」を憐憫とともに書いたこの新聞記事のことについては、当然同じコタンの同族の耳にも入っただろう。万次郎は、甚作は、そして北斗はこの記事を見ただろうか。そして、何を思っただろうか。

 

 実はノタラップとその一族は、北斗と彼の一族と浅からぬ縁で結ばれている。

 ノタラップは北斗が余市アイヌ文化を学んだ人物の一人であり、その孫は昭和30年代までアイヌの祭祀を行っていた「余市アイヌの最後の伝承者」である。

 そして、ノタラップの祖先は、北斗の《祖先》の命の恩人でもあり、また北斗の遠い祖先でもあるのだ。

 余市の惣乙名・ノタラップの一族は、イヨチコタンの始まりから、余市アイヌの終焉までを貫く縦軸であり、余市アイヌの歴史そのものである。今後、たびたび触れていくことになるだろう。

 

*6 斧鉞 斧(おの)と鉞(まさかり)。

*7 余市アイヌが最初にこの地に来た時、そこには体の小さな人が住んでいたという伝説がある。余市アイヌは彼らを「コロポックル」(蕗の下の人)ではなく、「クルプン・ウンクル」(岩の下の人)と呼んだ。(違星北斗「疑うべきフゴッペの遺跡」)

*8  石鏃、石槍 余市の続縄文時代の遺跡では、石の矢じり、槍の穂先がみつかっている。

*9 高島グル 現・小樽市高島周辺に居住していた一族。

*10 刺青(いれずみ) アイヌの女性は口のまわりに刺青をする習慣があったが、明治3年政府によって禁止令が出されている。。

*11 オロチョン バイカル湖からアムール川流域、中国黒竜江省周辺に住む北方少数民族の名称だが、ここでは厳密に固有の民族を指しているかどうか不明。。

*12 アマポ 仕掛け弓。

*13 メノコ アイヌ語で「女性」のこと。

*14 シャモ アイヌ語で「和人」、アイヌ以外の日本人のこと。

*15「小樽新聞」大正3年6月24日「滅び行く余市大川端のアイヌコタン(上)」より。引用に際して、現代仮名遣いに直し、適宜改行、空白を加え、読みにくい漢字はひらがなに変更した。また原文で強調されていた訛りを標準語に変更した。

*16 ノタラップ 北斗の時代の余市の乙名家系の一人で、「シャクシャインの戦い」における余市の総大将・「八郎右衛門」から数えて7代目(始祖より12代目)の子孫と伝わる。

*17 八郎右衛門 シャクシャインの戦いの際の余市の総大将。ノタラップの家ではその名を「ヤエモン」と伝わる。

*18「ヨイチアイヌの民族「カムイギリ」について」青木延博、『北海道の文化』61号

*19「沖の神(シャチ)とカムイギリ」難波琢雄・青木延広、『北海道の文化』72号

*20「ユカラ」とは、アイヌ口承文芸の一つで、叙事詩。韻文で節をつけて語られる。一般には「ユーカラ」とも呼ばれる。自然や動物の神々や、オキクルミのような文化神を主人公にしたカムイ・ユカラ(神謡、神々のユカラ)と、ポンヤウンペなどの人間の英雄を主人公にした英雄詩曲(人間のユカラ)に分かれる。他地域と同様、余市アイヌにも当然、ユカラは残っていたと思われるが、アイヌ語の形で録音されなかったため残っておらず、日本語で語り直したものがわずかに残っているのみである。

*21  “王城”の表記は小樽新聞 昭和5年9月3日「余市アイヌの伝説 突如王城を襲撃する一団」などにある。もちろん、王政をしいていたわけではないので、“王城”というのは修辞であるが、そこには日本海側最大、道内でも最大規模のコタンを率いていた余市アイヌの統率者であったという事実の投影があるだろう。

 

 

●《楽園》から《奴隷》へ

 和人によって「大地」が奪われ、漁業や狩猟の権利が奪われ、アイヌらしい生活をすることができなくなった時代のことを、北斗は次のように語っている。

 

 コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった……、保護と云う美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ………、腑甲斐(ふがい)なきアイヌの姿を見たとき 我ながら痛ましき悲劇である。

違星北斗アイヌの姿」)

 

 短い文だが、その中にはその時代に直面したアイヌの悲痛な胸の内が記されている。

 自らの民族を《自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ》と呼び、《我ながら痛ましき悲劇である》と、我のことを客観的に、冷静に分析した上で、自らを《奴隷》と呼ばねばならぬ残酷さ。

 その心境については、想像を絶するものあることだろう。

 また、北斗は《自由の天地》を失ったとも言っている。

 それは彼らが生きて生きた土地や自然といった環境だけでなく、別のものも失ったというのだ。

 人間にとって最も大切なものの一つ……アイヌは「自由」をも奪われたのだ。

 

アイヌ民族の歴史」を語る時に、明治政府による近代の植民地政策における抑圧や差別待遇については語られる。

「明治以降、アイヌ民族は、先祖代々の土地を奪われ、追い出され、生活の手段も失った」といったことだ。

 だが、それはもちろん明治時代に始まったことではない。

 江戸時代に生きたアイヌにとっても、「自由の天地」であったわけではなく、彼らは松前藩によって、彼らの目先の利益のために収奪され、あるいは《消費》された。過酷な強制労働や、強制移住、あるいは女性への非道な行為が行われ、それらが原因となって、人口が減少し、消滅を余儀なくされるコタンも少なくなかったのだ。

 まさに、自由を奪われ、《奴隷》的待遇を強いられたのだ。

 かつて、アイヌ民族の「自由の天地」であったアイヌ・モシリの天地と自由がどのようにして奪われていったか。

 すでに、祖父・万次郎や違星甚作の時代には「自由の天地」は遥かな昔のことであったし、幕末に生きた北斗の曽祖父イコンリキ、イソヲク、イタキサンらの時代においても、楽園の記憶は遠い過去のことであった。あるいは、江戸時代前半、「シャクシャインの戦い」の時代に生きた余市アイヌの英雄たちについても同様であったかもしれない。

 しかしながら、アイヌが「自由の天地」に生きた時代を、和人が残した史料の中に求めることは難しい。なぜなら、北斗がいう「自由の天地」の時代とは、「和人がいなかった時代」にほかならないからだ。

 

 それならば――彼ら自身に聞くしかない。伝承に残る、違星北斗と彼の祖先の余市アイヌたちに直接聞くしかないのだ。

 彼らの目線を通して、いかにして「イヨチコタン」の《天地》と《自由》が失われ、そして、祖先が酷使・収奪され、非道に扱われ……それにどうやって立ち向かったのか。

 まずは、違星北斗が「自由の天地」と呼んだ時代から語り始めてみたいと思う。

 

 

5 《イヨチコタン》

 

●コタンパイガシの漂流

  一人の青年が、木舟に乗って海上を漂流していた。

 夏の太陽の下、喉は涸れ果て、体力を失って、ぐったりと横たわるしかなかった。

 舟を操ろうにも、櫂はなかった。

 櫂は捨ててしまったのだ。

 家族、故郷、財産、日常、未来。

 すべてを失った彼は、運を天に任せ、運命を波と風に預けて、ただ流され続けていた。

 

 青年が生まれたのは、オタルナイのザンザラケップ(現在の小樽市銭函付近)のコタンだった。

 彼のコタンの背後には切り立った崖があり、その崖の下に「イゴロップ」と呼ばれる洞窟があった。イゴロップは、宝物の庫で、そこに一族の宝がうず高く積まれているのだった。

 ある晴れた夏の日、彼らは宝物を洞窟から出して、土用干し(虫干し)をしていた。

 その時、沖にレブンカムイ*22(シャチの神)の群れが通りかかった。

 それを見て、一族の中の愚か者が、あろうことか沖を泳ぐレブンカムイをからかったのだ。

「お前たち、こんなにいい宝物をもっているか? 持ってないだろう!」

 それを聞き、レブンカムイは怒った。

 たちまち神罰が下って、村の背後の崖がガラガラと崩れ始め、家も、宝物も、人も等しく飲み込んでしまい、ただ一人、その青年を残して一族はすべて全滅してしまった。

「なんという仕打ちだ! 我々は、日頃から多くの神を祀り、篤く信仰していたのにも関わらず、このようにたった一人の愚者の一言によって、一族すべてに神罰を与え、全滅させるとは、あまりにも無慈悲だ!」

 青年は嘆き、永年住みなれた「ザンザラケップ」を後にすることにした。

 彼は、小舟(ポンチップ)*23に乗り混み、沖へ漕ぎ出すと、櫂を捨ててしまった。

 生きるも死ぬも天に任せ、海を漂流ことにしたのだ。

 すると、東風(メナス)に流されて、西へ、西へと流れていき、やがて、陸地に山が見えてきた。イヨチのモイレ山だった。

 青年の舟は、イヨチコタンの人々に発見され、「イヨイチングル」*24たちは、「イナヲ」(イナウ)を手に持って振り、上陸するように促した。

 人々に助けられ、イヨチコタンに上陸した青年は、村長(サバネグル)*25に招かれた。

 サバネグルに事情を話したところ、サバネグルはイヨチコタンに住むことを許した。

 青年は、やがてサバネグルの娘と恋に落ち、結婚した。

 イヨチコタンの村外れ(コタンパ)に住んでいたため、「コタンパイガシ」*26と呼ばれるようになった。

 このコタンパイガシと、サバネグルの娘の間には子どもが生まれ、その子孫が、違星北斗の曽祖父・イコンリキの一族である。

 そして、コタンパイガシを救い、一族に迎え入れたサバネグルは、広大なフルカチャシに住み、シャクシャインの戦いにも名前を残すノタラップの一族の祖先であり、その娘の血をひく違星家もまた、彼の子孫であった。

 

*22 「沖の神」の意。通常レプンカムイと表記されることが多い。シャチは海のカムイの中で最高位の神とされ、余市アイヌに「カムイギリ」という魚型のレリーフを作り、他の海の神々とともに祀る。

*23 「ポンチップ」「メナス」「イナヲ」とも元記事の表記による。

*24 余市の人の意。表記は元記事の表記による。

*25 通常は「サパネクル」と表記されるが、元記事の表記に従う。

*26  コタンパは村の上端。イガシは「エカシ」で翁、男性の老人の意。「村の上の方にすむおじいさん」という意味なので、若い頃は別の名前で呼ばれていたはずである。

 

 

●《楽園》としてのイヨチコタン

 このコタンパイガシがたどりついた《イヨチコタン》は、どのようなコタンであっただろうか。

 遥か昔の《イヨチコタン》の姿。北斗はそれを次のように語っている。

 

 海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。

 イヨチコタン(余市村)は其の頃、北海道でも有名なポロコタン(大きな村)でした。此の楽園にも等しいイヨチコタンに(略)一人の若い男がありました。(略)

違星北斗『郷土の伝説 死んでからの魂の生活』)*27

 

 和人の入ってくる前の、あるいは和人に土地や生活の自由を奪われることなく、自由に漁や狩り、交易などをして楽しく、幸せに生活できた、遠い昔の「イヨチコタン」。

 北斗はそれを《楽園》に等しいと言っている。

 

 自然のままに生活していたアイヌは、貯蓄の必要もなかった程、野にも山にも、川にも海にも日用品が満々とありました。

 食うことだけは、心配のない時代、それは北海道の遠い昔のことであります。

 いつもいつもこんな調子で海の幸山の幸に恵まれるものと安心していました。

違星北斗『烏(パシクル)と翁(イカシ)』)*28

 

 イヨチコタンをとりまく自然の中には食べ物にあふれていた。

 秋になると余市川の水面が銀色に染まるほど鮭が遡上し、人々は手づかみで鮭を獲った。

 春になると海が一面埋め尽くされるほどのニシンの群来(くき)があり、海をあふれた鰊が、余市川の河口にまで埋め尽くした。

 近海ではタラ、ヒラメ、カレイ、アワビ、ナマコ、コンブなどが、川ではマス、アメマス、イトウ、ウグイ、カジカなどが獲れた。*29

 彼らは丸木舟を繰り、イラクサやシナ皮で作った網や、鈎銛で魚を獲った。

 山では諸々の果実、山菜、あるいは鹿や熊といった獣を追い、暮らしていた。

 コタンの近くには一面の笹原があり、アマポ(仕掛け弓)を仕掛けておくだけで、熊がとれた。

 川にも海にも鰊や鮭などの魚が溢れ、野山には鹿や熊たちがいた。

 海や川、野山に食料や日用品の材料が溢れ、食べものに対する心配がなく、貯蓄の必要もない。そんな満ち足りた時代のイヨチコタン。

 暮らしに必要なものがあれば、舟を駆って自由な交易によって手に入れる。

 それはアイヌアイヌらしく生きることができた時代だっただろう。

 

 この豊かな大集落・イヨチコタンの噂は、遠方の地域のコタンにもよく知られていたようで、イヨチという地名や、イヨチウンクル(余市アイヌ)の名は、遠く離れた太平洋側の胆振や日高のアイヌが伝えるユカラにもたびたび登場している。

 たとえば有名な伝承者・金成マツの残したユカラの中には、そのまま『余市姫』*30というタイトルのものもある。

 ユカラの中では、イヨチコタンは大きな城砦(チャシ)がそびえる、大勢力を誇る「ポロコタン」(大きなコタン)として描かれ、イヨチ人は、主人公のポンヤウンペと共通の敵と立ち向かう、同盟関係にある強く頼もしい存在として語られることが多い。

 その豊かで大きくて強い「ポロコタン」というイメージは、確かに北斗ら余市アイヌが語り継いたイヨチコタンの伝承とも共通する部分が大きい。

 このような《楽園》の風景は、北斗の童話でいえば、「烏(パシクル)と翁(イカシ)」*31や、「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」、あるいは「ローソク岩と兜岩」*32などにも共通しており、いずれもイヨチアイヌの生活圏の中に和人がいない時代、もしくは生活に介入してこない時代を舞台にしている。

 

*27 初出「子供の童話」昭和2年6月号。若くして妻を失った男が、妻に似た女を追って余市のシリパ岬の洞窟の先にある死者の国に行く話。

*28 初出は小樽新聞 昭和3年2月27日。やさしいお爺さんが、なけなしの食べ物をカラスにあげたところ、カラスが鯨の漂着を教えてくれる話。

*29 水産物などは『余市漁業発達史』(余市町)による。

*30 金成マツ・筆録、金田一京助・訳注。トミサンペツ・シヌタプカ生まれの勇者ポンヤウンペは、敵対するレプンクルとの戦いの中で、イヨチコタンの指導者ヨイチ・ウン・クル(余市人/余市彦)と、その若い娘イヨチ・ウン・マッ(余市姫)と出会い、やがてポンヤウンペはヒロインと恋に落ちる。(『ユーカラ集』6、三省堂

ちなみに通常ポンヤウンペの出身地のトミサンペツは浜益に比定されることが多いが、余市の伝承の中にはトミサンペツを余市の近くと伝えるものもある。これは他地方の伝承を自らの生活地に引き寄せた可能性もある。(「《秘伝》イヨチポロコタン物語り」沢口清、伝承・梅津トキ、『余市文芸』8)」

*31「烏(パシクル)と翁(イカシ)」は大飢饉の時の話であるが、本来豊穣な社会だからこそ、訪れた飢餓状態の悲惨さをより引き立てる形になっている。『違星北斗遺稿 コタン』(希望社)に収録。

*32「ローソク岩と兜岩」は、ある若者が女神から剣と兜を得て、海の魔物と戦う英雄物語。その剣と兜が余市沖のローソク岩と兜岩という奇岩になったという。初出は不明だが、北斗の知人鍛冶照三の『あけゆく後方後志』に「余市に伝わるアイヌの伝説(違星北斗の記述から)」とあり、北斗が何らかの媒体に発表したものを同書に収録したと思われる。

 

 

●イヨチコタンの戦い

 イヨチコタンには、ときには招かれざる者が現れた。

 ある時、武装したアイヌの一団が、余市の山から川伝いに一気に駆け下り、突如、フルカチャシを襲撃した。*33

 この一団は、日高の沙流周辺から来た「トパットゥミ」*34の集団であった。

 敵襲の報を受け、イヨチと周辺の各コタンから、屈強な男たちが手に手に武器を持って駆けつけたが、その時には大将でありフルカチャシの城主でもある村長(先述のノタラップや八郎右衛門の祖先)の後頭部、兜と鎧の間に、深々と敵の矢が突き立っていた。

 大将を失い、イヨチ軍の意気は消沈し、フルカチャシは襲撃者に占領されようとしていた時、人々の祈りが通じたのか、突如、ペツセンカ(河岸の突き立った上の意の地名)方面より土地の守り神であるチカップ(梟)の「コタンカムイ」が現れた。

 コタンカムイは両の翼を猛然と振ると、多くの敵がたちまち命を失い、あるいは重症を負った。

 戦況は一気に逆転し、イヨチ軍は勝利を得たのだった。

 戦に生き残った敵の沙流アイヌは降伏し、やがてイヨチコタンに永住することを許された。彼らは「ユウベトングル」と呼ばれ、その祖「サルマイガシ」を崇拝している。

 その後、チャシの中に住んでいた人々は、モイレやハルトリに移住し、コタンを構えた。

 違星北斗の祖先が漂着したのもこの時代であるという。

 

 北の海からやってきた「レプンクル」*35がイヨチコタンを襲撃してくる話もある。

 ある冬、イヨチの北西に横たわるシリパ岬のウタンクシ*36という場所から、北方のレプンクルがなだれをうって攻め込んできた。

 イヨチのアイヌたちは、一旦はレプンクルの侵略に危機を迎えるが、イヨチの周辺地域から援軍がかけつけ、見事にレプンクルに勝利し、イヨチを防衛する。

 生き残ったレプンクルは、イヨチの村長に懇願する。

「私たちは、六日六夜かかってここまできました。我々が住んでいたところは、冬が長く、大地は凍りついていて、食べ物が少ないのです。どうか、この豊かで食べ物のあるコタンに住まわせていただけませんか」

 それは、あまりにも身勝手な申し分だが、イヨチの村長は、その願いを聞き入れて、レプンクルを許し、彼らを村に迎え入れる。

 違星家の祖先はオタルナイから、シャクシャインの戦いの際に活躍した老将ケフラケの祖先はオタスツから移住してきた。襲撃者である日高からのユウペトングル、北の海を越えてやってきたレプンクル……イヨチコタンは多く人々が移住し、融和することで大きなコタンに成長していったのであろう。*37

 

 このように、北斗が書き残した伝承の中、あるいは他の地域のユカラに描かれるイヨチコタンは、外から来た者たちが羨ましがる、豊かな《楽園》として描かれる。

《楽園》の時代。それはアイヌが北海道の大地と海を縦横無尽に駆け巡ることができた《楽園に等しい》時代の物語である。

 そこには、和人の姿は見えない。漁や狩りを禁止したり、税金をとったり、上前をはねたり、ごまかしたり、土地を奪ったり、強制的に住居を追い出されたり、自らの欲のためにアイヌを虐使したり、女性に乱暴をしたりという、《楽園》にふさわしくない行いをする者の姿はないのだ。

 この《楽園》の時代が、実際には歴史上どの時代にあたるかは、諸説あって定まらない*38が、やはり、そういった時代が確かにあり、それが伝承に反映されているのだと考えたい。

 そして、違星北斗という一人のアイヌの中に、このような心象風景があるということを共有しておきたい。

 

*33 北海タイムス 昭和5年9月3日「余市アイヌの伝説(上) 突如王城を襲撃する一団イヨイチコタンの戦」より。伝承者は北斗の兄、違星梅太郎。沙流アイヌの襲撃の伝承の際に加勢したカムイは梟のカムイではなく、雷のカムイであったという別の伝承もある。なお、文中の「コタンカムイ」は、引用元に従ったが、「コタン・コロ・カムイ」(村を守る神)と表記されることが多い。

*34 夜襲、群盗、あるいは「鏖殺戦」と表記される。山中に潜み、夜になると集団で他の地方のコタンを襲撃して、コタンを皆殺しにして宝物などを奪う。

*35 「沖の人」の意。レプンクルは北海道より北に住む他の北方民族、あるいは大陸の人々であろうと思われる。

*36 ウタグスとも。歌越。シリパ岬にある地名で、「断崖の上にさらに重なった山のあるところ」の意。後に違星家が「違星漁場」を置いたのもウタグスである。

*37 「余市文芸」第8号「《秘伝》イヨチポロコタン物語り」(沢口 清、伝承・梅津トキ)「アイノユカラ(英雄詩曲)“シリパオ聖台地物語”ウタンクシの戦い」。余市に襲来したレプンクルと「勇者トミサンペ」が戦う物語。余市に類話がみつからないため、比較的新しい時期に他の地方の伝承の影響を受けたものであるかもしれない。

*38 和人の支配を被ることになる1669年(寛文9年)の「シャクシャインの戦い」の終結より以前であることは間違いないだろうと思う。

 

余市――間違われた名

  違星家の先祖コタンパイガシが、シャチの神に追われ漂流の末にたどりついたコタンは、北斗が「自由の天地」とも「楽園に等しい」とも呼んだ時代のイヨチコタンだった。豊かな自然に抱かれ、生きるのに不自由せず、アイヌアイヌらしく、誰かに支配されたり、束縛されたりせずに、自由を謳歌できた時代だ。

 いつまでも続くと思っていた、そんな《楽園》「イヨチコタン」の時代は、やがて失われていく。

 和人によって《発見》され、イヨチコタンは「ヨイチ」(余市)という過たれた名で呼ばれるようになってしまう。

 それは和人にとっては「良い地」に通じ、良い名前に思えるかもしれない。だが、それはアイヌにとっては間違った名前、改ざんされた名前であった。

「イヨチ」が和人にとって「良い地」となった時、そこは《楽園》でも《自由の天地》でもなくなり、アイヌにとっては暮らしにくく、生きにくくい地になってしまったのだ。

 違星北斗は和人が入ってくる前の時代、《楽園》としての「コタン」の伝承を語る時、「イヨチコタン」と呼ぶ。一方、和人が入ってきた後の時代のコタンを「余市(ヨイチ)コタン」と呼んでいる。

 違星北斗ら、アイヌの伝承者の多くが、両者を明確に区別して、時代によって書き分けていることに、留意すべきだろう。

 その後、「余市」のコタン、「余市アイヌ」の運命は変転に次ぐ変転を迎えることになる。

 15世紀の「コシャマインの戦い」の頃には、「余市」には、和人の流入が進み、隣り合わせに暮らすようになっていた。

 和人は海岸線に沿って、日本海側は余市まで、太平洋側は鵡川まで進出してきており、たびたび摩擦を起こすようになっていた。

 それが爆発した「コシャマインの戦い」では、余市アイヌはその他の地域のアイヌと連携して蜂起し、その結果、和人を北海道の南端、渡島半島松前にまで追い出し、ある程度の自由を回復することに成功する。

 やがて、松前藩が成立し、江戸時代前期の寛文9年(1669年)の「シャクシャインの戦い」に際しては、総大将・八郎右衛門(ヤエモン)や気骨の老将ケフラケらの余市アイヌの乙名たちが立ち、そして戦の終端において重要な役割を果たすのだが、それは余市アイヌだけでなく、アイヌ民族全体の運命を左右することになってしまう。

 やがて、「シャクシャインの戦い」の後、和人の場所請負人の「支配」の元で、漁労に従事せねばならなかった自由なき時代、北斗自身の言葉を借りれば、《自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされた》時代に入っていくのである。

 《楽園》のイヨチコタンを失った余市アイヌたちは、交流の時代を経て、闘争の時代、そして暗黒の時代へと向かうのである。

 

 次号、違星北斗の祖先、余市アイヌの乙名たちが、この時代の変化の中で、どのような境遇に置かれ、どのように行動したかを追ってみたいと思う。

(つづく)

「今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯」(第5回)  

 

第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期

 

4 父・違星甚作――「アイヌらしいアイヌ

 

●《中里》甚作

 違星北斗の父・甚作(セネックル)は、1862年文久2年)12月15日、余市の川村コタン(のちの大川町コタン)に生まれた。

 甚作は北斗の祖父・違星万次郎の実子ではなかった。

 甚作の実家は中里家といい*1余市の川村コタンの「脇乙名」イタキサンから出た家系である。イタキサンは違星家の家名のルーツとなったイコンリキとならぶ指導者であった。

 

 イタキサンには少なくとも四人の男児がいた。

 三男が鯉太郎(幼名・コエタ)、四男が猪之助(幼名・ホンコエタ)という。四男・猪之助*2は万次郎とともに東京「留学」し、東京で市村姓を名乗ったことは前述したとおりである。

 残念ながら、長男と次男の名前が資料*3からは欠落していてわからないのだが、このどちらかが、明治に「中里」を名乗った甚作の父親である。

 

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 《中里》甚作には兄が一人、弟が少なくとも二人おり、ほかに妹がいたようだ。

 次男である甚作は跡継ぎのいない違星家に養子に行ったが、二人の弟――三男と四男――も同様に余市の大川コタンの跡継ぎのない他家に養子に行っている。

 中里家を継いだ甚作の兄(中里家の長兄)はアイヌ名をイタク・エアシカイという。

 大正・昭和初期の余市アイヌの「豪傑」・中里徳太郎の父親である。

 日本名については「伯太郎」と「徳蔵」という二つの名前が残っている。

 金田一京助は「あいぬの話」*4の中で中里徳太郎の父を「徳蔵」としている。

 一方で、余市郷土史家・佐藤利雄氏による「違星・中里家の関係図」には「伯太郎」とある。

 どちらが正しいかは不明であるが*5、ここでは甚作の兄で中里徳太郎の父であるこの人物をアイヌ名「イタク・エアシカイ」で呼ぶこととする。

 この中里家からは、中里徳太郎のほか、その息子で北斗の親友となった中里篤治を輩出しており、違星北斗の人生にも大きな影響を与えることになる。

 

*1 甚作が違星家に養子に入った時期は不明。明治初期であれば「中里」「違星」という戸籍上の姓はまだなかった可能性もあるが、便宜上、家名は戸籍上の姓で記す。

*2 「猪之助」を「猪之松」とする資料もあり。

*3 資料とは『林家文書』の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」(1859年)。

*4 『金田一京助随筆集選集2思い出の人々』所収。

*5 「伯太郎」と「徳蔵」がそれぞれ別人である(徳太郎の父親が二人いる)可能性もあるが、ここでは「違星甚作の兄」=「中里徳太郎の父」=イタク・エアシカイと仮定している。

 

 

●甚作の兄、イタク・エアシカイの惨死

 違星甚作の兄(中里徳太郎の父)であるイタク・エアシカイは、和人に集団暴行を受け、非業の死を遂げている。

 北斗が残した記録があるので、少し長くなるが引用する。

 

 中里徳太郎と云うアイヌの団長がいます。我々はこの人ありと誇りとする程正義の男、熱血の快男児であります。

 この人の全生は奮闘に彩られて居ります。どうしてこの奮起したか。何かを語る挿話がある。

 それは……父の遺訓、五十年前の昔話である。

『徳太郎よ。お前は子供でくわしい事はわかるまい。

 しかし、よっくきけ。

 この父は今シャモのため殺されるところであった。

 残念で残念でたまらない。

 俺は余市川の洪水で杣夫(ヤマゴ)の木材の流出をふせいでやった。

 そして俺のために何萬石の損を助かったのである。

 それでヤマゴ連中が俺にお礼のために、損失をまぬがれたお祝として御馳走してくれた。

 そこまではよかったが、思えば残念である。

 俺は帰ろうとした。

 お礼を云うと立って下駄をはこうとしたら下駄がない。

 どうしたろう、と さがしていたら、

『おやんじ、ナニしている』。

 下駄がない。

『ナニ下駄がない? 生意気なことを云うな。アイヌは下駄なんかはいているか』

と不法な罵倒をあびせられた。

 その時、並居る一同はこのアイヌ生意気だ、やってしまえ、と打ち叩かれた。

 俺も酒に酔うているし、何しろ多勢に無勢で かなわない。

 シャモの奴等は俺を殺すとて、手に兇器を持って

『殺せ殺せ! アイヌ一人ぐらいなんだ、やってしまえ』

と総立ちになって、さんざんな目にあわされた。

 やっと逃げて、役場の小使様に助けてもらったからよかったが、小使様でも居なかったら、二度とお前の顔も見ることも出来なかったであろう。

 シャモと云う奴は全く悪い者が多い。

 徳太郎 お前は大きくなったら この恨みを晴らしてくれ。このかたきをとってくれ。

 しかしながら この恨みを晴らせと云う事はシャモに腕づくで かたきをとれと云うのではない。

 これからの世の中はなんと云うても学問がなくては偉い者になられない。

 お前は一生けんめい勉強して そして偉い者になってこんなにいじめたシャモ共を学問の上で征服してやてくれ。

 それが何よりのかたきうちであるのだ。わすれるなよ」

と申されて血みどろな父は抱いていた徳太郎の顔に熱い涙をはらはらとこぼされた。

 徳太郎氏 五才の時であった。

 子供心にも残念だ、よし!! 俺が大きくなって かたきをとらねばならぬ。何のことはない、父のひざで父と一所に一夜泣き明かした。

 氏の父はそれが元で 脳に異常を起して まもなく非業な最後をとげた。

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」*6)

 

 甚作の兄、イタク・エアシカイは善意によって和人の樵夫(きこり)の木材の流失を食い止め、莫大な損害を防いだにもかかわらず、酒の上での、アイヌは下駄なんかはいているか」「殺せ殺せ! アイヌ一人ぐらいなんだ、やってしまえ」という、まことに理不尽な理由で集団暴行を受け、それが原因となって死んでしまったというのだ。この北斗の記録では息子の徳太郎5歳の時の出来事となっている*7。徳太郎は1877年生まれなので、これは1882年(明治15年)ごろの出来事となる。イタク・エアシカイの弟の甚作は20歳前後である。

 北斗は同じ文章の中で「今より五十年前は『ナアーニ アイヌ一人ぐらい やってしまえ』の気風があったのであります」と繰り返し、その当時――明治初期――の北海道余市アイヌと和人との間にはそのような「空気」が確かにあったのだということを強調している。

 このあと、殺されたイタク・エアシカイの息子の徳太郎は、貧困生活を送りながらも、父親の遺言を守り、当時アイヌ子弟が入れなかった和人の小学校に直談判して入学し、漁場で働きながら学び続けた。やがて徳太郎は、授産や貯蓄の推奨、増資組合の結成、若者への修養の呼びかけなど、余市コタンの指導者としてアイヌの生活改善に尽くすことになる。

 また、徳太郎は余市アイヌの先覚者として、北斗たちを導くことになるのだが、それについては後述する。

 

*6 「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」『沖縄教育』1925年(大正14年)6月1日号所収。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。

*7 同じ出来事を記した金田一京助の「あいぬの話」では徳太郎は9歳となっている。この話は違星北斗金田一京助に話したものではなく、1918年(大正7年)に金田一余市に行った際に、中里徳太郎から直接聞いたものである。余談だが、同じ夏、金田一は近文で金成マツ・知里幸恵とも会っている。

 

 

●万次郎と甚作――10歳違いの「親子」

 中里甚作が違星家の養子となった時期は不明である。

 ただ、子どもの頃でないのは間違いなさそうだ。というのも、1862年文久2年)生まれの中里甚作と、1852年(嘉永5年)生まれの養父・万次郎の年齢差がわずか10歳しかないからである。

 10歳差で「親子」というのは、いわゆる「婿養子」であれば、よくあることかもしれない。しかし甚作は違星家の婿養子ではない。

 甚作の妻のハルは万次郎の娘ではなく、旧姓「都築ハル」*8というアイヌの女性である。

 記録の上で、甚作が確実に違星家にいるのが確認できる時期は1892年(明治25年)である。その年――甚作が30歳のとき――妻のハルとの間に、違星家の跡取り息子としての第一子・梅太郎が生まれている。

 つまり甚作が違星家に入ったのはそれ以前だと言える。

(仮に梅太郎が生まれる一年前に甚作が違星家に入ったとすれば、義父・万次郎が39歳、義母・ていが38歳の時ということになる。)

 二人の間には娘が一人いた*9が、おそらく違星家の跡取りとなる男児の誕生は難しいと考えて、同じコタンの中里家から甚作を養子として迎え入れたのではないだろうか。

 しかし、万次郎・甚作の「親子関係」については、よくわかっていない。  

 1901年(明治34年)の暮れ、三男・竹次郎(滝次郎=北斗)が生まれている。

 父・甚作が40歳、祖父・万次郎が50歳の時である。

 東京に「留学」した先進的なアイヌである祖父・万次郎と先祖から受け継いだ「熊取り」や「アイヌの伝統的な儀式」を重んじる、いわば「昔ながらのアイヌ」であったといえる父・甚作。

違星北斗は、この「両極端」ともいえる祖父と父の影響を受けて、育つことになる。

 

*8 余市郷土史家・佐藤利雄氏による「違星北斗(瀧次郎)家系略図(昭和58年11月15日)」(私家版)では「都築 茗次郎の妹」とある(「違星ハル」については後述する)。

*9 違星万次郎と妻ていの子としては、テル(1887年〔明治20年〕生まれ=万次郎35歳の時の子)とキワ(1896年〔明治29年〕生まれ=万次郎44歳の時の養子)がいる。

 

 

●馬鹿正直な父上

正直で良い父上を世間では馬鹿正直だとわらってやがる

                              違星北斗「志づく」)

 

 違星北斗にとって父・甚作は「正直で良い父上」であった。

 しかし世間はその甚作を「馬鹿正直だ」とわらう。

 北斗にとって「正直」とはどういう意味を持っていたのだろうか。

 「正直」という言葉を使った北斗のほかの短歌を見てみよう。

 

正直なアイヌだましたシャモをこそ 憫(あわれ)な者と 思ひしるなり

                                      (違星北斗「志づく」)

悪辣で栄えるよりは正直で 亡びるアイヌ勝利者なるか

                                     (違星北斗「私の短歌」)

 

 この二首では、「正直なアイヌ」「正直で亡びるアイヌ」といっても、父・甚作のことを直接言っているのではなく、北斗をとりまくアイヌの人々の一般的な状況を言っている。しかし歌に詠まれたアイヌ民族全体の姿は、甚作の〈世間に笑われる正直さ〉とも重なり合う。

 誰かを騙して悪辣で栄える者たちがいる一方で、正直であるがゆえにだまされ、奪われ、それによって存亡の危機に直面する者たちがいる。

 その「正直なアイヌ」たちが、どのような運命を辿ったか。たとえば甚作の兄、イタク・エアシカイがどうなったか――。

 

たち悪くなれとの事が 今の世に生きよと云ふ事に似てゐる

                            違星北斗「医文学」)

 

 たち悪くなれない正直な者が、馬鹿を見る。そんな世界は生きづらい……というのが北斗の実感だったにちがいない。父・甚作もまた、そういう「正直なアイヌ」だったのだろう。

 東京「留学」をした先進的な祖父や、教育熱心な母親(後述)を持つ北斗にとっては、一番身近にいる「アイヌを代表するアイヌ」「アイヌらしいアイヌ」こそが甚作であったのだ。

 

 

余市アイヌ最後の「熊取り」

 甚作の印象について違星北斗の友人の小学校訓導・古田謙二(冬草)も以下のように書き残している。

 

 私は北斗の家で、炉端であたっている北斗の父をよくしっている。

 おとなしい人だった。

 頭の耳の上の部分に大きな傷跡が残っていた。

「これは何の傷ですか」と聞いたら「オヤジにやられたのさ」と笑っていた。

 オヤジというのは親爺…即ち熊のことである。

 北斗の父は熊取りの名人で、若い時 熊取りに行き、遂に熊との格闘になって、その時 熊にひっかかれたのがこの傷跡だというのです。

 しかし、私が知った時は、おとなしい老爺におさまっていた。

(古田謙二書簡「湯本喜作『アイヌ歌人』について」*10)

 

 北斗自身も、甚作の傷と、その由来について、度々語っている。

 

 私の父は熊と闘かった為(た)めに、全身に傷跡が一ぱいある。

熊とりが家業だったのだ。

(違星北斗「熊と熊取の話」*11)

 

 違星甚作は、「正直」で「おとなしい」男だったが、その一方で、「熊と闘った」「全身に傷跡が一ぱいある」男でもあった。

 

アイヌには熊と角力を取る様な者もあるだろ数の中には

                           違星北斗『私の短歌』)

 

 明言してはいないが、この北斗の短歌の「熊と角力(すもう)を取る様な者」とは父・甚作のことを意識したものだと思われる。

 アイヌにとって、「熊」は単なる狩りの獲物ではなく、信仰に関わる特別な存在であった。

 

 北斗は「熊」について、次のように述べている。

 

 アイヌの宗教は多神教であります。

 万物が凡て神様であります。

 一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。

 そこには絶対平等――無差別で、階級といったものがありません。

 私の父は鰊をとったり、熊をとったりしております。

 この熊をとるということは、アイヌ族に非常によろこばれます。

 というわけは、熊が大切な宗教であるからであります。

 熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。

 従って、熊をとるということが、大変功徳になるのであります。

 その人は死んでからも天国で手柄になるのであります。

 そういうわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。

違星北斗「熊の話」*12)

 

 アイヌにとって熊をとることは「功徳」であり、「天国で手柄」となることである。〈熊取り〉は、狩人である一方で、神(カムイ)を歓待し、神の国へ送り返す司祭者でもある。

「馬鹿正直」と「神を祭る司祭者」――。

 心無い者たちにその「馬鹿正直」さを嘲笑され利用された男は、一方で、彼のことをよく知る者から勇敢な存在として讃えられ、同族からも、功徳を積んだ、死んでからも天国でその手柄を讃えられる「尊敬」される存在……。

 北斗は、父・甚作に「アイヌ」という存在そのものを見ていたのではないか。

 北斗は「熊」と「熊取り」にひとかたならぬ興味を抱き、何度もそれらについて語り、短歌や俳句にも読んでいる。

 

*10 北斗の友人で余市小学校訓導の古田謙二から、湯本喜作への書簡。湯本喜作が著作『アイヌ歌人』(1963年、洋々社)の中で違星北斗を取り上げたが、その内容の誤りについて、当時を知る古田謙二が手紙で指摘したもの。1965年(昭和40年)頃に書かれたと思われる。〈古田謙二書簡「湯本喜作『アイヌ歌人』について」〉という資料の名称は「違星北斗の会」の木呂子敏彦氏が手紙を入手し、清書した際につけた便宜上の表題。

*11 「熊と熊取の話」は『北海道人』1928年(昭和3年)1月号に掲載。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。

*12 「熊の話」(『句誌にひはり』1925年〔大正14年〕7月号所収)は、北斗が同年5月8日に「にひはり句会」で講演したものの講演録。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。

 

 

●「熊と熊取の話」――鬼熊与兵衛の話

 北斗は「熊と熊取の話」の中で、明治以前のアイヌの熊取りの名人〈鬼熊与兵衛〉について語っている。

 石狩地方の浜益の漁場で熊の出没が続き、積丹半島・来岸*13出身のアイヌの豪傑・与兵衛が呼ばれ、鰊倉庫を襲う何頭もの熊を次々に退治したという話である。

 北斗は「今を去ること七十年も昔のことである」と記述している。「熊と熊取の話」が発表されたのが1927年(昭和2年)であるから、その70年前だとすると、幕末の1862年ごろの出来事ということになる。

 ちょうど甚作が生まれた頃であり、万次郎は10歳前後の少年であった頃だ。

 余市コタンでは、万次郎の父・イコンリキや、甚作の祖父・イタキサンが脇乙名としてコタンを仕切っていた時代。それほど昔ではない。

 ちなみに、この与兵衛の妻も「鬼神」と呼ばれた女傑で「夫婦そろって巨熊を退治した」「今でも上場所で六十才以上の人には たいてい知られている」(「熊と熊取の話」)とも書いている。

 だが、北斗の祖父・万次郎や北斗の父・甚作が生まれ育った、熊と人間が隣り合わせに暮らし、鬼熊与兵衛のような熊と徒手空拳で闘うような屈強なアイヌがいた世界は、急速に失われていく。

 

 ならば今は我北海道に熊はいったいどれ位いるであろうか? 

 永劫この通り変るまいと思わせた千古の密林も、熊笹茂る山野も、はまなしの咲き競う砂丘も、皆んな原始の衣をぬいでしまった。

 山は畑地に野は水田に、神秘の渓谷は発電所に化けて、二十世紀の文明は開拓の地図を彩色してしまった。

 熊、熊! 野生の熊!!

 その熊を見たことのある現代人は果して幾程かあるであろうか?

(「熊と熊取の話」)

 

 北斗が生まれ育った明治後期から大正にかけて、余市は急速に変貌を遂げた。資本主義経済の発達の中で鰊(ニシン)漁の最盛期を迎え、「鰊バブル」とでもいうべき状況にあった。

 春になると大量にやってくる鰊のために町全体が沸き立ち、「ヤン衆」や「カミサマ」と呼ばれた出稼ぎ漁夫が押し寄せた。そうした出稼ぎ漁夫やアイヌを使役した和人の網元たちの懐には莫大な金が転がり込み、豪奢な家――鰊御殿が建った。

 余市川の川辺にあった大川コタンは、移住してきた和人の家に囲まれ、やがて「町」に飲み込まれていった。鉄道の駅、加工場、商店、劇場、映画館、酒場、遊郭……と、町にはさまざまな新しいものが流れ込んできた。

 それは、北斗の祖父・万次郎や父・甚作の生まれ育った頃のコタンとは全く違う世界だった。

 だが、「余市アイヌ最後の熊取り」の一人であった甚作は、市街地に飲み込まれ、「近代化」していく余市大川コタンの中にあっても、アイヌの信仰を守り、熊を狩り、息子の梅太郎やコタンの他のアイヌとともに、昭和のある時期までイオマンテ(熊送り)の祭りを続けていたのである。

 

*13 来岸(らいきし)とは積丹半島の西端にある地名。現・積丹町来岸町付近。 

 

 

余市アイヌ最後の熊取り――違星甚作が熊と格闘した話

 アイヌの豪傑・鬼熊与兵衛が、熊と大立ち回りを見せていた頃に生まれた甚作は、やがて余市コタンの「最後の熊取り」の一人となった。

 とはいえ、「父が樺太に長く熊捕り生活をした」(「疑うべきフゴッペの遺跡」*14)と北斗も証言しているように、余市近辺で日常的に熊取りをすることは難しくなり、甚作は樺太など他の地域に出稼ぎに出て熊取りを行っていたようだ。

 違星甚作の「熊取り」については、北斗の「熊の話」に詳しい。少し長くなるがところどころ引用していきたい。

 

 私の父、違星甚作は、余市に於ける熊とりの名人です。

 何でも十五六年も前のことでした。

 こんな時代になると、熊取りなんどという痛快なことも段々出来なくなるので、同じ余市の桜井弥助と相談して、若い人達に熊取りの実際を見せるために、十四、五人で一緒に出掛けて行きました。

違星北斗「熊の話」)

 

 この「熊の話」は1927年(昭和2年)、東京で行われた北斗の講演を記事化したものである。その15~16年前だとすると1913年(大正2年)あたりの出来事だろうか。子どもだった北斗は熊取りには参加していないだろうが、父・甚作本人や周囲の大人からその話は何度も聞いたことだろうが、まるで見てきたように活き活きと語っている。

 

 シカリベツという山にさしかかりました。

 弥助は西の方から、父は青年をつれて南の方からのぼりました。 

 例によって父は一行にはぐれて歩いておりました。

(同)

 

 雪のシカリベツ山*15を「かんじき」を履いて三日間歩き続けたが、全く熊と出会わない状態が続いていた。

 甚作は当時40代。健脚で、他の者がついてこれず、先に行き過ぎて甚作が止まって待つということが度々あったという。

 

 ところが父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。

 父はすっかり立腹してしまって、金剛杖(クワ)で犬をたたきつけました。

 犬はなきながら遠ざかって行きました。

 

 何度叩いても、その度に戻ってきて、甚作に向かって吠え立てる猟犬。

 

 狂犬になったのではないかと心配しながら また たたきつけますがちょっと後へ下がるばかり、盛んに吠え立てます。

 今まですっかり気のつかなかった父の頭に、熊でも来たのではないかしらという考えが、ふいと浮んだので、ふりかえって見ると、馬のような熊がやって来ておりました。

 それはもう鉄砲も打てない近い所に、じりじりと足もとをねらっているのです。

 とっさに父はクワ(杖)を雪の上へ突き立てました。

 熊は驚いて横の方へまわって、尚も足元をうかがっております。

 この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出会はなかったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまま持って歩くということは かなり危険ですから)

 父は鉄砲で熊をなぐりました。たたきました。

 その勢いで熊は二回雪の上をとんぼりがえりしました。

 父は一旦 後じさりして、鉄砲に弾を込めようとしましたが、先刻 熊をたたきつけた際に故障が出来てしまって弾が入りません。

 熊は今度は立って来ました。

 大きな熊でした。

 父は頭から肩先をたたかれました。

(この時父は太刀〔タシロ〕を抜くことをすっかり忘れていたと申しております)

ねじ伏せられて父は抵抗しました。

 格闘しました。

 後からやって来た十二、三人の連中は、これをどうすることも出来ませんでした。

もし手出しをしようものなら かえって自分達を襲って来はしないかという懸念がありました。

 ただ茫然として、遠巻きにこれを見ているよりほか仕方がありませんでした。

弥助のやって来るのを待ちましたが、弥助はなかなかやって来ませんでした。

(同)

 

 大川コタンのもう一人の熊取り名人・桜井弥助は、甚作とは別ルートから登っていた。

 甚作と弥助が若者たちに熊取りを教えるための狩りだったので、他の参加者は、実際の熊取りを知らない者ばかりであり、甚作が襲われていても、手の出しようがなかったのだ。

 

 父の防寒用の衣類も この際余り役に立たず、頭、顔、胸をしたたか かみつかれました。

 父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまえて、尚も抵抗を続けておりました。

 この時、山中熊太郎という青年が、熊に向って鉄砲を撃つ者はないかと一同にはかりましたが、誰も撃とうとはしませんでした。

 熊に向って撃った鉄砲がかえって格闘している人間に当りはしないかという心配がありましたから。

 と見ると、父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙から のがれて居りました。

 一同は思い切って後の方から一斉に鯨波(とき)の声を挙げて進んで行きました。

 熊はびっくりして後ろをふりかえりました。

 そして人間の上を飛び越えて逃げて行ってしまいました。

 実際、弥助のやって来るのは遅くありました。

 皆んなの介抱で山を下りました。

 それから大分長い間医者にかかっておりました。

(同)

 

 北斗や古田が言及している甚作の顔の傷が、この時の傷である。耳から顎にかけて、ひきつれを伴い、かなり目立つ形で残っていたようだ。

 

 ところで、それ程の大傷が存外早く癒(なお)ったことを特に申し上げなければなりません。

 それはアイヌの信仰から来ているのでありまして、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加えるものではない――という信仰が傷の全治を早からしめるのであります。
 其の後、父は熊狩りに懲りたかと申しますのに決してそうではありません。大正七年の「ナヨシ村」
*16の熊征伐を初めとして、その他にも しばしば出掛けて行きました。(同)

 

 北斗が言うように、甚作はその後も熊取りを続ける。だが、甚作は余市付近では熊取を行わなくなったという。その理由を甚作自身が語った記録がある。

 

 余市付近の山で熊によって怪我をしてから、絶対に余市付近では熊狩りをしなくなり、却って樺太へ行くと熊狩りをした(中略)余市付近の熊の家族に対して、何か自分の仕草が気に入らない所があったに違いないから、余市付近で熊狩をすると祟りが恐ろしい。

 然(しか)し樺太では熊の家系が異なっていると思うから、それ相応の神祈をして狩に出れば大丈夫と思う

(名取武光・犬飼哲夫「イオマンテアイヌの熊祭)の文化的意義とその形式」*17)

 

 北斗は甚作の傷が早く治ったのは、アイヌの熊への信仰によるものだという。そして甚作もまた、自分が襲われたのは、余市の熊(カムイ)の一族にとって、自分の態度に気に入らないところがあったからだろう、だから、樺太の熊を取ることにした、というのだ。

 甚作、そして北斗にも、熊への特別な信仰が息づいていたことがわかる。

 彼らだけでなく、市街地に飲み込まれた「大川コタン」の中にあって、違星家や他の余市アイヌの人々は長くアイヌの信仰を守っていた。

 大正時代、余市大川町の多くのアイヌは、昔ながらのアイヌ式の家屋ではなく、和人の労働者とおなじような木造の住宅に住んでいた。

 しかしながら、北斗の家もそうだったが、自宅にはアイヌの神々「カムイ」の信仰のための祭壇「ヌササン」があり、そこにさまざまな宝物を飾っていた。

 違星家の祭壇については、北斗が1924年大正13年)8月に余市を訪ねてきた西川光次郎にその宝物を見せている。*18

 

 弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。

 まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちている。

 それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がいなくなったから……。

「人跡未到の地なし」と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃の地を名残に残したきり殆んど獲り尽くされたのである。

(違星北斗「熊と熊取の話」*19)

 

 北斗は、急激に失われてゆく「熊取り」と「熊祭り」の文化を嘆いたが、それでも、しばらくはなくならなかった。北斗の死後も、「熊祭り」は父・違星甚作や兄・梅太郎、他のアイヌたちの手によって、細々とだが続けられていった。

 

*14 余市フゴッペで見つかった文字のようなものが刻まれた壁画について、北斗が考察した論文。1927年(昭和2年)12月より翌年1月まで6回にわたり小樽新聞に連載された。

*15 余市郡仁木町然別。余市大川町からは余市川を遡った場所にある。

*16  樺太の「名好村」。現ロシア連邦サハリン州レソゴルスク。日本海側に位置する余市アイヌは古くから樺太アイヌとのつながりが深かった。「父が樺太に長く熊捕り生活をしたので」(「疑うべきフゴッペの遺跡」)とあるので、甚作の樺太での熊猟は少ない回数ではなかったようだ。また、余市アイヌ樺太アイヌの婚姻も少なくなかったようだ。

*17 名取武光・犬飼哲夫「イオマンテアイヌの熊祭)の文化的意義とその形式」

*18 『自動道話』1924年大正13年)10月号「樺太、北海道巡講記」西川光次郎に8月13日「朝、アイヌ青年違星氏宅を訪問し、種々の宝物を見せて貰ふ」とある。

*19 雑誌『北海道人』(1928年〔昭和3年〕1月号)掲載。

 

 

●最後のイオマンテ

 北斗が東京から北海道に戻ってきた1926年(大正15年)ごろの余市の大川コタンには、「熊の檻」、そして「熊の碑」というものがあった。

 詳しいことはわからないが、「大正15年」の余市大川町の復元地図*20に「熊の碑」と記載されている。

 また「熊の檻」については、

 

 中央の小さな広場に丸太で作った檻の中で、熊の子が飼育されていた。二才になると兇暴性が出るので、神に感謝を捧げる熊祭りが行われた

(目黒幸男『草莽』*21)

 

とある。

 大川コタンでは、「熊祭り」(イオマンテ、熊送り*22)は、1914年(大正3年)ごろまでは隔年で行われていた*23らしい。「隔年」というのは、子熊を育て、二年目にイオマンテ神の国に送ったからであろうと推測できる。

 その後、だんだんと行われなくなったようだが、「余市アイヌ最後のイオマンテ」というべきものが、1937年(昭和12年)2月25日に行われている。それは数百人の観衆が集まり、新聞社の取材も入った大々的なものであった。

 祭司は75歳の違星甚作と、もうひとり61歳の「古老」が務め、午後2時より「熊祭りが大川町登川河畔において厳かに執行された」(『小樽新聞』1937年〔昭和12年〕2月25日*24)とある。

 

 十数名の婦人の哀調を帯びた熊送りの唄と踊りが手拍子足拍子によって儀式を一層 劇化させる。

 耳輪を飾られた熊は祭壇前に据えられ

 更に祭事の後 場の中央に設けられたシコロの神木に結ひられ

(中略)一族の若人順次 射込み 鮮血点々として 白雪を染め

 痛手にほうこうする悲鳴と共に凄惨な気を場にみなぎらせ

 若き旧土人が機を計って猛り狂う熊に飛びかかって押し込み

 シコロの木をもって咽喉を扼し

 かくして傷ついた若熊は昇天、

 これを一族が音頭とともに、祭壇に送り祭事を営み

 クルミを撒いて珍しい祭りを同三時半終えた(中略)

 この熊祭りは余市町として最近になく

 かつは古老によって営まれる熊祭りはこれが最後であろうといわれ 

 仲々の人出であった。

 なほこの日 余市郷土研究会では永く本熊祭りを記録に止めるべく山岸、山本正副会長以下会員多数場に赴き

 違星梅太郎氏の解説を聞きつつ最後までこれを見学して得るところが頗る多かった(同)

 

 違星北斗の死後8年を経て、違星家の父・甚作と兄・梅太郎が中心となって、このような大きなイオマンテを行うことになったのには、やはり死せる北斗の影響が大きかったであろうと考える。

 文中の余市郷土研究会の山岸(礼三)会長は、北斗の主治医であるが、北斗との交流によって郷土研究に興味を持った人物であった。また兄・梅太郎も当初は、北斗がアイヌ文化の研究を行うことを快く思っていなかったのだが、北斗の活動が多くの人々の心を動かしていくのを見て思いを新たにし、北斗の晩年は良き理解者となったのであった。

 余市においては、古老による盛大なイオマンテは記録に残っているものはこの1937年(昭和12年)のものが最後であり、その後は、戦後にイオマンテを行ったことがあったが、その際は準備がなかなか整わず、本格的なものとはならなかったようである。*25

 また、余市で昭和30年代ごろまで、ひっそりとアイヌ式の祭事を行っていた人物がいたとも言われている。*26

 

*20 「大正15年当時大川町市街地復原地図(1994年〔平成6年〕7月作図完成)」 余市の鰊漁の全盛期であった大正時代の余市大川町の街並みを、有志が当時を知る有志が、多くの人々への聞き取りを行って復元した市街地の地図。

*21 目黒幸男『草莽』「70年前の大川の街通りによせて」(1998年〔平成10年〕)

*22 「カムイ」である熊などの動物を、神の国に送り返す祭礼。歌やごちそうで歓待する。宴にはいい思いをしてもらって神の国に帰ってもらうことで、仲間のカムイたちにも再び現世に毛皮や肉などの恵みを持って来てもらう、という意味がある。

*23 『小樽新聞』1914年(大正3年)6月9日「巨人の跡」

*24 『小樽新聞』1937年(昭和12年)2月25日「熊送り唄も哀しく白雪に血の花~昔めく余市の熊祭」。引用にあたっては適宜、改行を追加している。

*25 「戦後クマ祭りをやったとき衣装がなかったので日高から借り、にわか仕立てで踊ったが、ヨイチでアツシを持っていたのは旧家のフチだけで、それも樺太西海岸のものだという1枚だけだった」佐藤利雄「大川・入舟遺跡の歴史的概要について」『余市水産博物館研究報告』3、2000年〔平成12年〕

*26 余市郷土史家・青木延広氏の証言による。違星家ではない。

 

 

●甚作から「北斗」に受け継がれたもの

 違星北斗は、祖父・万次郎の語る文明の地、《モシノシキ》東京への憧れを抱きつつも、同時に「熊取り」の名人であった父・甚作の「強き者としてのアイヌ」の姿にも憧れていた。

 勇敢で信仰に篤く、正直で人情に厚い――そんな父の「アイヌらしいアイヌ」という言葉から連想されるようなアイヌの面影を愛し、「アイヌであること」への誇りを確かに受け取っていた。

 同時に、その「正直」さを踏みにじる人々を憎んでもいた。

 

 勇敢を好み悲哀を愛してたアイヌアイヌ今何処に居る

                                  (「北斗帖」)

 

 強きもの! それはアイヌの名であった昔に耻(はじ)よ醒(さ)めよ同族(ウタリー)

                     違星北斗、『志づく』1928年〔昭和3年〕4月)

 

という北斗の「勇敢なアイヌ」「強きアイヌ」のイメージの中には、巨熊と素手で闘うほど勇敢な、「アイヌらしいアイヌ」であった父・甚作の影響が大きいのではないだろうか。

 北斗の作品の中には、先に紹介した「熊の話」「熊と熊取の話」の他にも、短歌や俳句の中で、熊のことを詠ったものがある。

 それだけではなく、彼自身の号である「北斗」も「熊」と関連付けてつけられたのではないか思われるのだ。

「北斗」という号は、北の大地北海道で一人斗(たたか)う――という意味にも取れ、また、北斗七星のように、人々に進むべき方角を教える存在になろう――という決意のあらわれともとれる。

 さらに北斗は、そこに北斗七星を形作る「大熊座」の意味も含めているように思えるのだ。

 ジョン・バチラーによると、

 

 北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。

 その子熊は、止めを刺された後に、その魂は、熊の祖先が住んでいる北極星に行くのだ、とされているのであります。このことは、熊祭りに参加している首長たちや、古老たちが、別れの挨拶に北極星の方向に向って空中に矢を放つ理由なのです。*27

 

という。

 しかしこれだけでは、ただの偶然のようにも思えるかもしれない。

 実際、北斗自身が、「北斗七星」と「熊」を関連付けるような文言は残していなかったので、わたしも確信が持てないでいた。

 ところが最近見つかった「違星北斗大正14年ノート」に、次のような詩があった。

 

小曲(冷たき北斗)

1 

アイヌモシリの 遠おい遠い

むかしこひしの 恋ひしややら

 

2 

光るは涙か? それとも声か?

澄むほど淋し 大熊小熊

 

3 

みんなゆめさと わすれてゐても

雲るも涙 照さえかなし

 

4  

北のはてなる チヌカラカムイ

冷めたいみそらに まばたいてゐる

                       (「違星北斗大正14年ノート」より*28)

 

 最初に「北斗」と命名した時点でそうだったかはわからないが、この詩が書かれた時点では、北斗自身が「北斗」の号の中に、アイヌの宗教観・世界観の根幹をなす「熊」のイメージを込めようとしていたことは間違いないだろう。

 そしてそれは、巨大な熊を狩り、カムイとして祀る「アイヌらしいアイヌ」であった父・甚作が体現していた「アイヌの姿」を、その名の中に封じ込めようとすることに他ならなかったのだ。

 

 次回は、違星甚作のもう一つの家業「鰊漁」と、それによる余市コタンの変貌について、考えてみたい。

 

※北斗の死後に行われた余市でのイオマンテについては、「記録に見る余市アイヌの民俗誌」(乾芳宏、2003年『余市水産博物館研究報告』第6号)に学ぶところが多かった。

 

*27 ジョン・バチラー『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』「第5章 アイヌの説話と生活 星の伝説」。

*28 「違星北斗大正14年ノート」北海道立文学館蔵。違星北斗が1925年(大正14年)に使用していた雑記ノートで、短歌や俳句などの作品の草案、講義録、住所録、家計簿などの内容が含まれている。

 

(つづく)

 

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第4回)

 

第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期(承前)

 

3 祖父・万次郎の東京〈モシノシキ〉

 

※ 違星万次郎たちの東京への「留学」あるいは「強制就学」については、『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室、2008年)によるところが非常に大きい。素晴らしい研究にあらためて謝意を表したい。

 

●「清光院」での寄宿生活

 1872年(明治5年)8月9日*1違星北斗の祖父・万次郎ら8人の余市アイヌの「留学生」は東京に到着し、寄宿舎に入って先に着いていた27名と合流した。

 この寄宿舎について北斗は「芝の増上寺清光院とかに居た」*2と書いている。

 この書き方だと、増上寺関連の仏教施設に寄宿していたように思えるが、明治5年にはこの「清光院」の建物と土地は開拓使によって買い上げられており、すでに増上寺の関連施設ではなかった。が、在学生からすると「増上寺清光院にいた」という感覚だったのかもしれない。

「清光院」の場所は今日の芝・増上寺の境内ではなく、参道にある芝の「大門」の北側、飯倉神明宮(現在の芝大神宮)の北辺にあったようだ。

(ちなみに、幕末の地図を見ると、増上寺の南側に「清光寺」という寺院があるのだが、それではない)

 北斗自身、祖父の暮らした「増上寺清光院」について調べていたような形跡がある。

 万次郎の上京から53年後の1925年(大正14年)の北斗の雑記帳ノートの中の住所録に「芝公園 増上寺(浄土宗大本山) 神林周道 師」の名と、増上寺の電話番号の記載があるのだ。

 北斗が増上寺の神林周道と接触したのは、その年2 月に上京してから、ノートを使用していた1925年11月までの間であろうと思われる。(ただし、神林の氏名・電話番号を知っただけだった、あるいは手紙や電話などでのやりとりだけだった可能性はある)

 神林は浄土宗の僧侶である。交友関係が広く、様々な著名人と交流があったようだ。意外なところでは泉鏡花らの怪談(百物語)の会に参加しており、その怪談が現代にも伝わっている。*3

 残念ながら、北斗と神林周道の対話の記録は残っていない。だが、上京した北斗が増上寺で半世紀前の祖父の「留学」について、神林から話を聞いた、あるいは聞こうとしたのはほぼ間違いないであろうと私は思う。

 

*1 1872年(明治5年)の日付は「西暦(グレゴリオ暦)」を使用。

*2 『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)「我が家名」。

*3 神林周道は浄土宗の布教師。『文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会』(東雅夫編、ちくま文庫)に「深夜の電鈴」という神林の怪談が掲載されている。

 

開拓使仮学校の中の教室

 万次郎たち「留学生」が実際に学んだところは、開拓使仮学校の中にあった「北海道土人教育所」(以下、「教育所」)である。*4仮学校の一室が「教育所」の教室にあてられていた。

 その学舎はもともと増上寺境内の「方丈」(僧侶が生活する場所)であったものを、開拓使が1872年(明治5年)に買い上げたものであった。*5

 開拓使仮学校は、現在の増上寺および「東京プリンスホテル」の北、地下鉄「御成門」駅近くにある「芝公園4号地」(「みなと図書館」がある付近)にあった。公園内には往時を伝える「開拓使仮学校跡地」の記念碑が立っている。*6

 1872年6月末に余市以外のアイヌ「留学生」が上京した当初は、全員が渋谷の第三官園で「農業実習」をする予定で、彼らはそこに荷をおろした。

 しかし、7月には年齢の若い者を開拓使仮学校に附属した「土人教育所」で勉強させることとなり、18名が増上寺の仮学校に移動した。

 万次郎ら余市アイヌが合流した8月には、渋谷から移動した18名がこの仮学校内に寝起きしていたが、手狭になったため、開拓使は宿舎として「清光院」を買い上げ、「教育所」組は9月27日にそちらに転居した。*7

 だが、最終的には出身地が同じ者を同じ寄宿舎に集める形で移動を行い、1872年12月末の時点では小樽・高島・余市出身者19名*8が芝の「清光院」に寄宿し、札幌・石狩・夕張の出身者15名が渋谷の農業実習施設「第三官園」で生活した。第三官園の15名のうち3名は渋谷から芝の「教育所」に通学している。

 万次郎ら余市アイヌは、全員、寄宿舎「清光院」から開拓使仮学校内の「教育所」まで徒歩5分程度の距離を通学した。

 

*4 本稿では違星万次郎ら余市アイヌおよび小樽・高島の「留学生」がいた「教育所」について中心に語り、渋谷の「開拓使第三官園」で農業実習をしていた石狩・札幌・夕張アイヌの「留学生」に関する記述は省く。こちらの詳細は『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室)を参考にされたい。

*5 徳川家の菩提寺増上寺明治維新後の「廃仏毀釈」の中で広大な土地を政府機関に召し上げられ、縮小を余儀なくされていた。

*6 「開拓使仮学校跡」の記念碑には次のように書かれている。

北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。」

 ちなみに記念碑には「附属 土人教育所」のことには一切触れられていない。

*7 『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室、2008年)

*8 本来なら20名となるが、うち1人が11月に死亡したため19名となっている。

 

●勉強の内容

 開拓使によるアイヌ子弟の教育は、開拓使次官・黒田清隆の肝いりによるものである。

 だが、運営する側には、明確なビジョンはなかったようで、アイヌの「留学生」を呼んでみたはいいが、カリキュラムなども何も決まっておらず、場当たり的・泥縄式に後手後手で決められていったようだ。

 そもそも農業実習の予定で呼ばれたが、芝の教育所での学問と渋谷の官園での農業実習に振り分けられ、その班分けも当初は年長者が農業実習、若年者が学問となっていたが、度々入れ替えが行われ、最終的には小樽・高島・余市出身者が教育所、札幌・旭川・夕張出身者が渋谷の第三官園と、出身地によって配属先が分けられることとなった。*9

「教育所」での授業は「漢学」(読み書き)、「書」(習字)、「算術」(算盤)。女子は「算盤」ではなく「裁縫」で、「和裁」(機織、単物、襦袢、綿入れ)と「洋裁」(シャツの仕立て、ミシンなど)も学んだ。

 授業に使うテキストも、特にアイヌの「留学生」用に用意されたものではなく、主に既存の小学生向けのものを使用*10し、教える教員もアイヌの言語や文化に通じた者ではなかった。授業は全て日本語で行われ、アイヌ子弟のために配慮の行き届いたものではなく、読み書きの教科書で和人社会の一般常識や歴史・地理などの知識も学ばされた。

「書」(習字)では「いろは」のほか数字・手紙文を練習し、郷土の親や親戚に手紙を書くことも推奨されたようだ。

「算術」は多くの者が2桁以上の掛け算・割り算を学び、成績上位者は平方根を求める開平法、図物(図形)なども習った。

 

*9 ただし、渋谷の官園の宿舎から「教育所」に通った生徒もいたことから、最終的には就学内容ではなく、出身地域ごとに宿舎を分けることになったようだ。

*10 使用した教科書は以下のようなものである。
A『啓蒙手習の文』(福沢諭吉)……小学生用の文章手習いの書。「いろは」や数字、時間、干支、日本の地理に関する単語などを学ぶ。

B『史略』(文部省)……小学校の歴史の本で、日本史、中国史、世界史などを学ぶ。

C『単語編』(文部省)……日本の日常生活に関する単語を学ぶもの。「書」(習字)に使用。

D『郡名産物日本地理往来』(正木征太郎)……日本各地の地理と名産品などを学ぶ。Aの修了者用。

E『泰西勧善訓蒙』(箕作麟祥)……小学校・中学校程度の道徳で使用するもの。A、B、Dの修了者用。(『《東京・イチャルパ》への道』より)

 

●「教育所」の日常生活

 アイヌの「留学生」たちの日常生活はどのようなものであったのだろうか。資料によれば、

 

「留学中のアイヌは皆和人の風俗に倣はしめ、男は髭を剃り髪を切り、女は入墨耳環を廃し髪を結ひ、特に男には洋服を着け靴を穿ち帽を被らせたり」*11

 

 とあり、上京に際してアイヌの「留学生」たちは名前や生活習慣を和人風に改める「風俗改め」を強いられた。これには非常に大きな抵抗を感じた者も多かっただろう。*12

また、「教育所」の生徒たちは寄宿舎生活を送っており、規則正しい生活を求められた。*13

 一日のスケジュールは次のようなものである。

 午前5時30分の起床し、「室外整列」。これは「点呼」ということであろう。

 6時30分より朝食および復習(自習)、8時から正午まで4時間の授業。

 正午より30分間の昼食と休憩をはさんで、12時30分から14時まで1時間半の授業。30分間の休憩のあとは14時30分から「体操」1時間。

 15時30分から入浴、夕食。そして18時から20時までは復習(自習)の時間がとられており、その後「室外整列」(点呼)のあと、21時に就寝。

 朝起きてから寝るまで分刻みのスケジュールで「点呼」まであった。

 時間に追われる毎日を送る現代の我々からするとそれほど違和感はないかもしれないが、これは「明治」の始めの話である。そもそも「1時間」「1分」「1秒」といった時間の概念や、「12時」「13時」といった西洋式の時刻の概念(定時法)が導入されたのが1873年明治6年)のことなのだ。一般の日本人にとっても、季節によって「一刻」という時間の長さが変わる「不定時法」にまだ馴染んでいた時代だった。

 そんな「1時間」という「時」の感覚がない、家庭に時計も行き届いていない時代に、まるで軍隊のようなスケジュールで生活することをアイヌの「留学生」たちは求められたのである。開拓使としては、アイヌの「留学生」を過酷な待遇に置こうという意図はなかったとしても、彼らにとって、ストレスを伴うものであったことは想像に難くない。

 毎週、水曜の午後と日曜は授業がなく、自由時間だった。

 生徒たちは自由時間に外出し、支給される費用の中から買物などもできたが、外出中も「土人取締」と呼ばれる役人によって常に監視されていた。

「留学生」たちは官費学生という扱いであり、学費や寄宿舎の賄い料として月7円50銭が支給され、生活に必要な衣料品・学用品・日用品も支給された。*14

 食事も「留学生」たちを苦しめた。日々の食事は和食もしくは洋食であったが、白米中心のメニューだった。

 授業が始まってしばらく経つと、アイヌの「留学生」たちが次々と体に異常を訴え始める。

 万次郎も、しだいに体調がおかしいことに気づく。

 手足のしびれ、むくみ、倦怠感、食欲不振、心臓の苦しさ……。

 そして、ついに万次郎は倒れた。

 

*11 『北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育』「四、山本惣五郎の履歴」より。『アイヌ史資料集第二期出版第四巻』(阿部正己)、(初出『歴史地理』第37巻6号 1921年〔大正10年〕6月1日)

*12  時代はやや違うが、強制的に髭を剃り落とされ、髪を和人風に結わされて、改名もさせられため、食事を断って死んだ江戸時代後期の長万部の首長トンクルの話を松浦武四郎が伝えている。明治初期にあっても、アイヌの多くにとって名前や生活習慣を和人風に改める「風俗改め」に対して大きな抵抗があったことは間違いないだろう。

*13 このスケジュールは1874年のもので、開拓使仮学校、同女学校とも同じものだった。1873年明治6年)1月1日の改暦・定時法導入以前のスケジュールは不明。

*14 支給された衣服は和服・洋服・下着・帽子・足袋・履物など。学用品は半紙・筆・石板・石筆など。日用品はマッチ・灯芯・炭・手拭・シャボン・洗濯シャボン等が支給された。

(『《東京・イチャルパ》への道』より)

 

●最初の病死者

  医者*15の診断によれば、「脚気(かっけ)」であった。

脚気」は江戸時代から原因不明の病として知られ、特に江戸で多く見られたことから「江戸患い」と呼ばれた病気である。万次郎たち、アイヌ「留学生」たちもまた、江戸=東京に来てすぐに「江戸患い」にかかってしまったのだ。

 今でこそ、脚気ビタミンB1の欠乏によって引き起こされるものと判明しているが、それが農芸化学者・鈴木梅太郎によって証明されるのは、この時代から40年近く後の1910年(明治43年)のことである。

 馴染みのない白米中心の食事と、常に監視され時間に縛られているストレスがおそらく万次郎の体を衰弱させ、入院治療*16させることになった。

 そして12月、退院した「清光院」に戻った万次郎は、入院前とは何かが違っていることに気づいたことだろう。

 ともに学んできた「留学生」の1人が亡くなっていたのだ。

 11月13日の夕方、小樽出身の女性・瀬上はと(アイヌ名・ハモテ)が33歳*17で死んだのであった。神式で葬儀が行われ、縁なき東京の芝・増上寺近くの青松寺に葬られた。

 だが、死者は彼女1人にとどまらなかった。

 

*15 万次郎が診察を受けた医師の名前は不明だが、他のアイヌの「留学生」はお雇い外国人の医師・ホフマンやアンチセル、医局医師・尾本涼海らに診察されている。

*16 入院した病院および入院期間は不明。

*17 当初、開拓使では27歳とされていたが、のちに調査により上京時33歳であったことが判明する(『《東京・イチャルパ》への道』より)。

 

●帝都《モシノシキ》の逃亡者

 退院した万次郎が「教育所」にもどって間もなく、この「留学生活」がどれほどアイヌの「留学生」たちにストレスを与えていたかが伺える「事件」が起こる。

 12月26日、小樽出身のヤエソンコが、芝の「清光院」を休憩時間に無断で抜け出し、宿舎に戻らなかったのである。

 ヤエソンコは「中里八十五郎」(なかざと・やそごろう)という日本名を持っていた、上京時23歳の男性。記録によっては「八十八」(やそはち)となっているものもあり、混乱するのでここではアイヌ名「ヤエソンコ」を使用する。

 脱走の原因は不明だが、彼は農業実習をしていた渋谷の「第三官園」から移籍してきたばかりだった。それまで約4カ月農業実習をしてきたのが、「教習所」での勉強のクラスに移されたことになる。緑にあふれた「官園」で牧畜や農耕の技術を学んでいた彼が、他の者から4カ月遅れた形で勉強を始めなければならないという急激な環境の変化に対するストレスもあったに違いない。

 そして、東京にともにやってきた、まさに家族のように身を寄せ合い助け合ってきた同郷の年上の女性・ハモテが死んでしまっていたことも大きかったのかもしれない。

 開拓使はヤエソンコの服装や人相を警察に伝え、捜索を依頼したが、ヤエソンコをすぐには見つけることができなかった。

 彼が見つかったのは2週間後の1873年明治6年)1月9日、場所は芝三島町だった。三島町は清光院のすぐ近くである。

 彼が異郷の地で14日間、どのように過ごしていたのかは今となってはわからない。

 その時期世の中は「旧暦」から「新暦」への切り替えで大混乱の日々だった。そんな明治5年から6年に移り変わる年の暮れ、真冬の東京をあてもなくさまよったヤエソンコは、寒さと空腹に耐えかねて仲間と温かい食事の待つ寄宿舎のある芝に戻ってきたのかもしれない。「帰りたくない」という気持ち、「見つかって楽になりたい」という気持ち、脱走という事件を起こしてしまったことから「帰るに帰れない」という怖さ。様々な逡巡を抱きながらも、その足は仲間たちのいる「清光院」にむかっていたのではないかと思う。

 東京での「教育所」の生活に耐えきれなかったヤエソンコは、「留学」を中断し、4月に帰郷する。彼にとっての東京での5カ月は、万次郎のように「美しい思い出」になりえなかったに違いない。

 

●続発する罹患者

 ヤエソンコが「教育所」に戻ってきた3日後の、1873年1月12日、札幌出身で、「第三官園」で農業実習を行っていたイコリキナ(古川伊吉)が発症した。

3月27日には余市出身で「教育所」で学んでいたハシノミ(坂東きち)が原因不明の苦痛を訴え出した。3月29日に子どもを死産していたことが判明する。

 4月には万次郎が、再入院する。

 前年12月に退院してから、3カ月で再び症状が悪化し、一時は危篤状態となったという。

 この2回目の入院では約6カ月入院することになるのだが、この万次郎が不在の間に、さらに何人かが発病し、命を落とすことになった。

 6月15日、16日には石狩出身のラウシ(佐部雷次)、高島出身のシンタ(高根新太)、小樽出身のイクハ(永山幾八)が、北海道の函館病院に移され、入院する。重症患者が続出し、お雇い外国人医師などの優秀な東京の医師も匙を投げる中で、故郷に近い函館の病院に移すことになったのだと思われる。

 だが、7月17日、函館病院に入院していたラウシが死亡したという知らせが届く。23歳であった。アイヌ「留学生」2人目の死者である。(ハシノミの赤子を入れると3人目)

 

●東京で「違星」姓を名付ける

 10月頃、万次郎は2度目の入院から戻った。

 1873年明治6年)11月4日付の『郵便報知新聞』に、「東京で学ぶ小樽・高島・余市アイヌの生徒が和名を名乗りたいと申し出た」とある。

 これは、北斗の「明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢となったのである」(『我が家名』)の記述と一致する。小樽・高島・余市ということは「教育所」にいる者たちである。

 ただ、小樽は亡くなったハモテと退学したヤエソンコを除くと7名となり、それに高島3名、余市8名を足すと18名となる。北斗の「12名」という数字とは一致しない。

 実際に戸籍に反映されたのはその後かもしれない。また、札幌・石狩・夕張のアイヌ「留学生」は上京時に和名を付けられていたようで、北斗の言う「アイヌの苗字の嚆矢」は正確ではない。北斗は万次郎から聞いた話をそのまま書いたのだろう。

 ただ、「違星」という苗字が、故郷から遠く離れた東京の地で生まれたということは、間違いない。

 

●新しい命の誕生

 東京で亡くなる命がある一方、東京で生まれる命もあった。

 夫婦揃って「留学」した例が2組あり、そのうちの一組、札幌出身の「留学生」であるイワオクテ(能登岩次郎)・ウテモンガ(能登もん)夫妻に12月1日、子どもが生まれた。

 この時生まれた子どもは男の子で、酉年だったことからか「酉雄」*18と名付けられた。

 夫のイワオクテは、渋谷の「第三官園」から芝の「教育所」に通学していたので、万次郎とも親しかったであろうと思われる。

 のちに、万次郎の孫・違星北斗は1928年(昭和3年)1月に「能登酉雄氏」を訪ねる計画を立てており*19、祖父の「学友」の息子、能登酉雄とは交流があったようだ。

 

*18 能登酉雄の生誕地は『能登酉雄談話』(高倉新一郎)や『文献上のエカシとフチ』などでは「1873年明治6年)石狩町花畔生まれ」となっているが、実際は両親ともに「留学中」に生まれており正確には「東京生まれ」ということになろう。

*19 『自動道話』一六六号(1928年〔昭和3年〕2月)「手紙の中から」

 

●万次郎、慢性脚気で退学する

 東京にやってきて二度目の春。1874年(明治7年)の3月、「教育所」に1人の若者が新たに入学した。万次郎の同郷・余市郡ハルトロ出身のサラルトツ(宇生文吉)である。*20

 一方で、万次郎の病状(慢性の脚気)はいよいよひどくなり、勉学を続けるのに耐えられなくなってきたため、彼は「教習所」に度々帰郷を申し出るようになった。

 4月17日、「第三官園」で農業実習を学んでいた夕張出身のアフンテクル(夕張安次郎)が亡くなった。39歳か40歳だった。*21アイヌ「留学生」3人目の病没者であった。

 アフンテクルは夕張の「乙名」でコタンの指導者であった。

 同じ頃、万次郎は「教育所」を辞して帰郷する決意を固め、「教育所」に訴えた。「教育所」=開拓使がそれを許可したことで、万次郎は他の者よりも少し早く「留学」を終えることになった。

 万次郎は4月26日に横浜から北海道開拓使の附属船「玄武丸」*22で北海道に向かった。

 1年と9カ月の東京生活だったが、そのうち約半分の9~10カ月くらいは2度の入院で寄宿舎から離れ、病院で暮らしたことになる。

 さらに、万次郎がおそらく船上にあったであろう5月4日、罹病中だった札幌のイコリキナ(古川伊吾)が亡くなった。35歳か36歳*23だった。

 先のアフンテクルと同様、イコリキナはコタンの指導的立場にある「乙名」であり、彼の死は故郷サッポロのコタン社会にとっても大きな損失であった。彼が4人目の病没者となった。

 この自分の父「イコンリキ」と似た名前を持つ年長の男の死を、万次郎がどのように聞いたのかは不明である。所属も万次郎のいた「教育所」ではなく、渋谷の農業実習組であったため、どの程度の交友関係を持ったかもわからない。

 亡くなった「留学生」4人のうち、ハモテ、イコリキナ、アフンテクルの3名が30代半ばから後半であったことを考えると、やはり壮年の方が寄宿舎生活のストレスが大きなものだったのかもしれない。

 ところで万次郎は、すんなりと余市には帰れなかった。

 5月初頭、万次郎は直接余市に向かわず、まず函館の病院に入院して治療することとなった。「慢性脚気」は足の麻痺をもたらすため、あるいは歩行にも支障があったのかもしれない。

 しかし、数週間経っても、症状の改善は見られず、それならば故郷の余市に帰りたいと強く希望したため、1874年6月頃、違星万次郎は2年ぶりに故郷・余市の大川コタンの土を踏んだのであった。

 

*20 サラルトツ(宇生文吉)には榎本武揚陪審(付き人)という肩書があるが、余市出身のアイヌの青年がどのような経緯で榎本の付き人になったかは不明である。

*21 アフンテクルは上京時の年齢が38歳のため1874年には39歳もしくは40歳であったと思われる。

*22 玄武丸は北海道開拓使が新造した暗車(スクリュー)型蒸気船。901トン、100馬力、1872年米国ニューヨーク建造。乗客28名。ちなみに、万次郎が北海道に帰った3年後の1876年(明治9年)に開拓使長官・黒田清隆が乗船する開拓使の御用船から大砲が誤射され、小樽の一般市民の少女が死亡した事件があったが(「黒田長官大砲事件」「玄武丸事件」)、その「玄武丸」である。

*23 イコリキナは上京時34歳だったので、35歳もしくは36歳だったと思われる。

 

アイヌ「留学」の破綻

 それぞれのコタンでは指導者的立場にあった年長者のアフンテクルとイコリキナを相次いで失い、「留学生」たちの間にも悲しみと動揺が走ったことだろう。

 違星万次郎の離脱を開拓使が許したことも、その呼び水になったのかもしれない。

 他の「留学生」からも、一時帰郷の希望が度々出てくるようになっていた。

 特に切実だったのが、亡くなったイコリキナの遺族である。イコリキナは弟イソレウク(半野六三郎)とその妻トラフン(半野とら)、そしてイコリキナが養育していたオサーピリカ(うの)とともに、家族で「留学」していたのだ。イコリキナが亡くなったことで郷里の親も不安がっているため、小樽に一時帰郷したい旨を遺族たちは切実に訴えた。

 同じ頃、小樽出身のソーコハン(山本惣五郎)、イレンカ(丸木永吉)、アシラン(上村阿四郎)と、余市出身で中途編入のサラルトツ(宇生文吉)の4人の若者*24は、一般の生徒が通う「開拓使仮学校」への進学希望を申し出ていた。

「留学」生活をやめて故郷に帰りたい者が数多くいる一方で、10代の若者であったソーコハンらはもっと学びたいと希望したのである。

 アフンテクル、イコリキナと年長の2名が相次いで亡くなったこと、4人目の病死者となったイコリキナの死と、その家族3名が帰郷を申し出たこと、万次郎が病気で退学したこと……それらが積み重なるように起こったことによって、アイヌの「留学生」たちの間だけでなく、開拓使の中でも何かが変わったのだろうか。開拓使はこの「留学」事業に先がないということを認めざるを得なかったのかもしれない。

 開拓使が「留学生」一人ひとりから進路希望の聞き取りを行った結果、20名が帰郷もしくは一時帰郷を希望し、5名が「開拓使仮学校」への編入を希望した。

 そして帰郷もしくは一時帰郷を希望した20名は「一時帰郷の後に復学すること」を条件に帰郷を許され、それぞれの故郷に帰っていった。

 しかし再び東京に出て、復学しようとする者はあらわれなかった。

 

*24 上京時、ソーコハンとイレンカは16歳、アラシン15歳。サラルトツは不明。

 

●東京「留学」から帰郷した人々

開拓使仮学校」への進学を希望した5名とは、先に触れたソーコハン(山本惣五郎)、イレンカ(丸木永吉)、アシラン(上村阿四郎)、サラルトツ(宇生文吉)の4名に、石狩出身のシロスケ(麻殻四郎助)を加えた5名であった。彼らは希望通り「開拓使仮学校」に編入された。*25

 翌1875年(明治8年)、「開拓使仮学校」は札幌に移転して「札幌学校」となった。それに伴い、生徒たちも一緒に札幌に移り、彼らのうちの何名かは「通詞」など開拓使の吏員としての職を得ている。

 また、開拓使は、「留学」事業の「成果」を示すためなのか、進学せずに故郷に戻った者たちも役所で雇用する計画を立てており、実際に雇用された者もいた。*26

 その一方で、帰郷した札幌や小樽のアイヌの中には、和人にコタンを追われるように、別の地域に移住せざるを得ない人々もいた。

 伝統的な漁撈・狩猟を禁じられ、慣れない農業で身を立てなければならなくなった時、「留学生」の中には、東京で身につけた知識と能力を活かして、農業を指導したり、同胞の生活向上のために役所との交渉や申請、あるいは陳情などを行った者も少なくなかったと思われる。たとえば、札幌のイワオクテ(能登岩次郎)は、コタンの人々のために役所に農地の下付申請などを行っている。

 東京帰りの生徒たちは、都会で身につけた立ち居振る舞いや洋装のせいで気取っている思われたり、それを快く思わない人々に僻まれたり、侮蔑されたりすることもあったようだ。

 

*25 「開拓使仮学校」では和人と同じクラスではなく、アイヌ生徒5名だけのクラスが新たに設定された。

*26 進学組からはソーコハンが「開拓使等外三等出仕」で小樽勤務、サラルトツが「開拓使等外三等出仕」で刑法局勤務。ほかに「物産局」で煙草製造や養蚕などに関わる仕事の雇員となった者が複数いる。

 

●万次郎にとっての東京「留学」

 「祖父は開拓使局の雇員ででもあったらしい。ほろよい機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。

(『我が家名』)

 

 違星北斗のこの記述によると、万次郎は「留学」のあと「役人となった」と読める。

だが、『《東京・イチャルパ》への道』で明らかにされている就職者の中に「万次郎」は含まれていない。

 その後、万次郎は孫の北斗に自慢したように「開拓使の役人」になったのであろうか。

『《東京・イチャルパ》への道』では「万次郎が、二年間の勉学生活を通じて、自分も役人の一人になったということに、矜持をもっていたことがうかがえます」(92ページ)と書かれている。万次郎が東京に「留学」をしていたこと(それによって、官費を支給されていたこと)をもって、「開拓使の役人」であった、という解釈をとっているようだ。

 そうだったのかもしれない。

 上の北斗の記述も、そのように読むこともできる。

 だが一方で、私はやはり万次郎が何らかの開拓使の役人であったのではないかという考えも捨てることができないでいる。

 というのも、北斗以前にも、万次郎が役人になったと書いている者がいるからである。

 北斗は上で引用した「我が家名」を書いた1927年(昭和2年)の6年前――言論活動を始める以前の1921年(大正10年)に、

 

東京留学のアイヌにて卒業後、官吏に採用されたるもの三四人あり。余市の万次郎は東京拓(ママ)使出張所に奉職し

(「北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育」*27 

 

と書いている。少なくともこれは孫の北斗による万次郎の回想を引用したものではなく、第三者の客観的な記述であると思われる。この違星万次郎の「開拓使奉職」については今後の研究課題としたい。

 万次郎にとって、東京「留学」の「教育所」や「清光院」の思い出を孫たちに語ることは、それが彼にとって良い思い出であり得たからだろう。

 違星万次郎は、東京で病を得て、入退院を繰り返した。

 同郷の女性ハモテが亡くなった時は病院にいた。ラウシが函館で死んだ時も、入院中だった。夕張のアフンテクルの時は「教育所」にいたが、自分も病状が悪化して郷里への帰還を願い出ていた。そして小樽のイコリキナが亡くなった時は東京をあとにして、北海道に戻る途上だった。

 万次郎は仲間の悲劇の瞬間にあまり立ち会っていないのだ。

「留学」期間の約半分を、思い通りにならない体を病院のベッドに横たえ、天井を見つめて過ごしていた万次郎にとっては、みんながいる「清光院」や「教習所」は、「早く健康になって戻りたい」と思える場所だったのではないだろうか。

 

*27 『北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育』「四、山本惣五郎の履歴」より。『アイヌ史資料集第二期出版第四巻』(阿部正己)、(初出『歴史地理』第37巻6号、1921年〔大正10年〕6月1日)

 

●万次郎の結婚

 一時は危篤状態にまで陥り、回復のめどが立たないと医者も匙を投げてかけていた万次郎だったが、郷里の余市大川コタンに戻ると、「白米中心の食生活」ではなくなったためであろうか、脚気から回復したようだ。

 結局は北斗ら孫たちに囲まれ、万次郎は大正13年頃(72歳)まで長生きしている。

 ただ、万次郎は東京に「留学」したこと、違星北斗の祖父であるということ以外には、目立った業績やエピソードなどは記録にない。余市の大川コタンで、一介の漁師としてその生涯を送ったようだ。

 違星万次郎は、イソオクの娘てい(ホンカリ)と結婚した。*28イソオク家には男児がいなかったため、婿養子となった。

 生家のイコンリキの家には跡継ぎがおり「梅津」姓を名乗っていた。万次郎はイソオク家にイコンリキの父方の家紋に由来する「違星」という家名を与えた。これが「違星」家である。

 イソオク家はイコンリキ家より家格が下だったので、それに対する万次郎のこだわりもあったかもしれない。いずれにせよ、養家に生家由来の名前をつけるというのは、明治の始め、姓をつけた時代ならではのエピソードだろう。

 万次郎は妻ていとの間には跡継ぎとなる男児を授からなかったために同じ大川コタンの中から養子をもらうことになった。

 中里甚作(セツネクル)である。のちに違星北斗の父となる男であった。

 中里家は幕末のころ、万次郎の父・イコンリキと並ぶ余市の川村コタンの指導者、「惣乙名」イタキサンの家系であり、甚作は万次郎とともに東京に「留学」をした猪之助(幼名・ホンコエタ)*29の甥にあたる。

 この中里家からは、のちに余市アイヌの傑物として知られることになる中里徳太郎や、北斗と一緒に同人誌『茶話誌』やガリ版刷り同人誌『コタン』を作った幼馴染の親友・中里篤治(凸天)を生むことになる。

 

 次回は、違星北斗の父・甚作と母・ハル、そして兄弟たちのもとで違星北斗がどのような幼少期を送ったのかについて考えてみたいと思う。

 

*28 万次郎がていと結婚した時期は不明。上京前に結婚していた可能性もある。

*29 猪之助は東京で本家と違う市川姓を名乗ったため、中里姓ではない。

 

(つづく)

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第3回)

 第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期(承前)

 

3 祖父・万次郎の東京〈モシノシキ〉

 

●万次郎が生まれた時代の余市 

 違星北斗の祖父・万次郎は、1852年(嘉永5年)、父「イコンリキ」(伊古武礼喜)と母「かふに」の三男として、余市の「川村コタン」に生まれた。

 川村コタンは、余市川の河口東岸、登川が流れ込む合流地点にあり、「川向」村とも呼ばれた。後の北斗の時代には地名から「大川コタン」と呼ばれた。

 当時、余市には、余市川の両岸に「上ヨイチ場所」(上場所)、「下ヨイチ場所」(下場所)の二つの「場所」があった。*1いずれも「場所請負人」の林家(屋号「竹屋」)が差配していた。

「場所」とは元々は松前藩がその財政基盤であるアイヌとの「交易」を行う場所であったが、後にその経営を藩から請け負った商人が行うようになった。場所請負人は交易の拠点として「運上屋」を設け、アイヌとの交易を行ったが、やがてアイヌを使役して、直接大規模な漁場経営を行うようになり、経済だけでなく、地方行政をも担うようになっていった。

 万次郎の生まれ育った川村コタンは「上ヨイチ場所」に属し、役アイヌ*2が多かった。

「下ヨイチ場所」は余市川の西岸のモイレ山の北辺にあり、現在、「旧下ヨイチ運上屋」(重要文化財国史跡)として復元保存されている。

 違星北斗自身も余市を「アイヌの村落中で一番能く日本化した所です*3と言っているように、早くから和人が多く移り住み「アイヌとの交易を行う場所であった」が、徐々にニシン漁という巨大産業を中心とした、利潤追求型の社会構造を持つ地域となっていった。余市アイヌは早い段階で和人のつくったこの利潤追求型社会に労働力として組み込まれ、和人に使役される生活を強いられることになっていったのである。

 余市の場所請負人・林家の残した『林家文書』には、余市アイヌの世帯数と人口が残されている。*4

 

〈上ヨイチ場所〉

川村(家数17軒、人口112人)  ※(川向)現・大川町

〈下ヨイチ場所〉

モイレ(10軒、54人)                ※現・入舟町

ハルトロ(3軒、17人)               ※ハルトリ、現・浜中町

ヌウチ(12軒、73人)                ※ヌッチ、現・ヌッチ川河口、

山牛(5軒、29人)                        ※ヤマウシ、現・沢町

テタリヒラ(11軒、66人)            ※デタリヒラ、現・白岩町

シュマ泊(7軒、39人)              ※シュマトマリ、現・潮見町島泊

湯内(5軒、11人)                      ※ユウナイ、現・豊浜町

 

 安政6年当時、余市場所内には万次郎の生まれた川村コタンをふくめて上記のような八つのコタンがあった。

 余市アイヌの総戸数は84戸、総人口は469人(男249人、女220人)となっており、中でも川村コタンは当時、日本海側では最大のコタンであった。

 また、同書には余市アイヌの農業についての記述もある。

 余市アイヌは漁場に従事する一方で、ヨイチ場所請負人・林家の監督の下、早くから農業も手がけ、多くのアイヌが田畑を開発していた。たとえば1856年(安政3年)、万次郎の父(北斗の曽祖父)イコンリキは一反の畑で粟・大根などを耕作していたと記録されている。一反は300坪(=600畳)である。余市アイヌ全体の農耕地は3町6反7畝9歩で海岸線全域にわたっていた。*5

 幼少年期の万次郎も漁撈だけでなく、畑を手伝っていたことだろう。

 

 

*1 古い資料では上ヨイチと下ヨイチの場所が東西逆に書かれており、ある時期に呼び名が変わった可能性がある。

*2 コタンで「役」をつけられたアイヌのこと。「役土人」ともいう。「役」には「惣乙名(そうおとな)」「脇乙名(わきおとな)」「小使(こづかい)」「土産取(みやげとり)」等があるが、もともとアイヌ社会で用いられていた役割ではなく、あくまで「場所」の和人に与えられた役割であった。役アイヌは和人から優遇されるかわりに、和人のアイヌ支配の協力者としてほかのアイヌを統治しなければならなかった。

*3 伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集第11巻』)より。

*4 『林家文書』は場所請負人・林家に残された記録で、交易・漁場を行った運上屋の記録。余市アイヌに関する記載も多い。イコンリキの名は「脇乙名」という指導者的役職のため、『林家文書』には度々登場する。

*5 『林家文書』「安政六年 土人人別書」(『余市農業発達史』)。余市アイヌの戸数と各家の人数・名前・続柄・年齢などを記録したもの。各コタンの世帯数、人口の小計と、総人口・総世帯数の合計数は一致してしない。

 

●万次郎の家族

 幕末の1859年(安政6年)の資料*6によると、万次郎は「脇乙名」の役を持つイコンリキ(伊古武礼喜、45歳)と母かふに(31歳)の三男「ヤリヘ改 万次郎」(8歳)と記録されている。

 8歳というのは「数え年」であり、満年齢でいうと7歳である。

 続柄は「三男」とあるが、万次郎を「次男」とする文書もある。三男として生まれたが、兄が死亡または他家へ養子に行ったなどの理由で、明治初期の戸籍作成時に事実上「次男」であったのかもしれない。

「ヤリへ」というのは「おしめ」「オムツ」といった意味の幼名である。乳児の仮の名としてよく使われていたようで、資料には同じ「ヤリへ」の幼名を持つ人がほかにも数人見られる。

 アイヌは魔除けとして汚い意味の幼名をあえて子どもにつけた。そして後に正式なアイヌの名前(アイヌ名)をつけるのである。しかしながら万次郎が成長後に、和人の名(和名)である「万次郎」以外のアイヌ名を持っていたかは不明である。

 万次郎の兄弟として、長兄「フヤリカタ改 勘八」(12歳)、次兄「クサヱ改 仙蔵」(10歳)、妹「ほんかふに改 かふ」(6歳)、弟「半七」(3歳)の名があり、ほかに同居人としてイコンリキの弟「アツテツ改 厚蔵」、親類の子であろう「ヨコ改 横蔵」(26歳)があり、いずれも和名(日本風の名前)を持っている。

 アイヌ名から和名への改名は万次郎の家族だけでないようで、1859年の資料に記された余市の八つのコタンでは20歳代より若いアイヌはほぼ全員和名で記されている。一方、30歳代以上はほとんどがアイヌ名で記されおり、余市においてはある時期にアイヌに対して和名を強制するような動きがあったのだろうと思われる。

 ただし北斗の父で万次郎の養子・甚作(セネツクル)はアイヌ名と和名の両方を持っていた。アイヌ名と和名の両方を持つ時期がしばらく続いたものと思われる。

 

*6 『林家文書』 「安政六年 ヨイチ御場所蝦夷人名前書 控」(『余市町史 第一巻 資料編一』)。

 

●激動の時代と重なる少年期

  万次郎が余市の川村コタンでどのような少年時代を過ごしたかは記録が残っていないのでわからない。

 ただ、彼の少年期はそのまま、幕末から明治維新の激動の時代に重なる。それはアイヌモシリ(蝦夷地/北海道)に暮らすアイヌ民族にとってもまた激動の時代であったはずである。

 1853年(嘉永6年)の「黒船来航」の1年前に生まれた万次郎は、箱館戦争が終わり明治維新のあった年、満16歳だった。

 1869年(明治2年)、明治新政府は、それまでアイヌが「アイヌモシリ」と呼び、和人が「蝦夷地」と呼んでいた土地を「北海道」と命名し、一方的に日本の領土に編入した。そして北海道を「開拓」するための役所として「開拓使」を置いた。

 アイヌは「旧土人」とされ、彼らの意志とは無関係に「日本人」に編入された。

万次郎、満17歳の時である。

 さらに1871年明治4年)にはアイヌに対し、葬儀に際して家を燃やす〈家送り〉や入墨、男子の耳環の着用などを禁止した。そして日本語と日本文字の学習などを「告諭」という形で命じた。

 開拓使の開拓次官に就任した黒田清隆は、北海道開拓のための人材育成を目的にした学校の設立を構想し、1872年(明治5年)、東京・芝の増上寺に「開拓使仮学校」を開設した。また、同じ敷地内に、政府の開拓事業に協力するアイヌを育成するための附属教育所を併設した。「開拓使附属北海道土人教育所」である。

 満20歳の万次郎は「留学生」として余市から東京に連れて行かれ、この教育所に入学することになるのだが、それによって万次郎の人生は大きく動きだすことになる。

 

●万次郎の「東京留学」

 私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より五十五六年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキと云ってゐた(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生十八名の一人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。

 祖父は開拓使の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。

その頃に至ってからやっとシャモ並に苗字も必要になって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢になったのである。

違星北斗『我が家名』より)

 

 晩年の万次郎は〈モシノシキ〉と呼ぶ東京への「留学」の思い出を竹次郎(北斗)ら幼い孫たちに語った。「自分は役人であった」と自慢げであったという。

 だが、万次郎にとっては「良い思い出」となったこの「東京留学」が、ほかのアイヌにとってもそうだったかどうかはわからない。万次郎自身にも、おそらく孫には語っていない(語れない)ことがあったのではないか。

 この「アイヌ子弟の東京留学」については、近年明らかになったことが多い。「留学」とはいいながらその実態は「強制連行」「強制就学」であったといわれている。だが、この稿ではあえて違星北斗が使用した「留学」をカギ括弧つきで使うことにする。

 実際の「東京留学」はどのようなものであったのか。

 そして、なぜ、万次郎にとっては「良い思い出」と語るに足るものとなったのか。ほかの参加者はどういう経験をし、どういう感想を持ったのか。

 万次郎の東京の「良い思い出」は結果として、北斗の東京への「憧れ」を募らせることとなり、その50年後、ついには北斗自身も上京を果たすことになる。

 もし、万次郎の「東京留学」がなかったとすれば、違星北斗の東京行きもなかったかもしれず、そうすれば、後のアイヌ民族の歴史もまた違ったものになったかもしれない。

「東京留学」について先行研究*7を参考にしながら、20歳の万次郎の目を通して、この「東京留学」(もしくは「強制連行」)をたどってみよう。

 

*7・『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(編集・東京アイヌ史研究会/出版・現代企画室、2008年)所収の狩野雄一・広瀬健一郎「第二部 開拓使による東京でのアイヌ教育」。同書は「東京留学」/「強制就学」についての精緻な調査・研究を行っており、その詳細を伺い知ることができる貴重な書である。

広瀬健一郎「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」(『北海道大学教育学部紀要』1996年12月)

 

余市コタンから〈モシノシキ〉東京へ

 1872年(明治5年)、開拓次官・黒田清隆は東京・芝増上寺に「開拓使仮学校」を設立すると同時に、アイヌ子弟を教育するための教育施設として「北海道土人教育所」を併設した。

 当初は100名のアイヌを上京させ学ばせる計画だったが、結果的には1872年(明治5年)から1874年(明治7年)までの3年間しか行われなかった。参加人数も35名(最終的には38名)に留まっている。

「留学生」に選ばれたアイヌは、石狩、札幌、夕張、小樽、高島、そして万次郎ら余市の出身者で、北海道全体から見れば、地域的に非常に限定されている。日本海側の古くから和人との交流が多く、松前藩開拓使の影響力が大きい地域であった。

 そして、「留学生」となったのは、それらのコタンの中でも日常的に和人との接触が多く、和人の言葉や文化、風習などについての知識がある若者、家柄的には、「乙名」や「小使」「土産取」といった、和人に協力して村をまとめる「役」を持った指導的な立場のアイヌの子弟が多かった。

 開拓使としては、将来コタンで影響力を持つであろう指導者層の若者を「教化」し、アイヌ統治のための手先としたいという目論見があったのだろう。

 また、現実問題として、各地コタンの役アイヌにとってその立場上、「若者を差し出せ」という命令を断れなかったのかもしれない。

万次郎も、余市の脇乙名・イコンリキの息子だった。

 石狩から4名。札幌からは9名。夕張2名、小樽9名、高島3名。そして万次郎の余市からは8名、計35名(後に余市1人、択捉2名が加わり38名)のアイヌの男女が東京に連れて行かれることになるが、いずれも10代後半から30代の働き盛りであった。各家庭にとっては主要な労働力をとられることになるため、多くのアイヌが子弟の東京行きを拒んだ。*8

 当初の目標人数100名の「留学生」を達成できなかったことから、明治初期の開拓使には、これらの地域以外で人材を「供出」させるだけの影響力がなかったのであろうことも伺える。

 1872年7月26日(明治5年6月21日)。*9

 万次郎ほか、余市郡の各アイヌコタンから8名の若者が札幌に集められた。

 川村(現・大川町)コタンから6名。

(違星)万次郎、(市村)猪之助、(小丹波)半蔵。(坂東)きち、(山田)龍助、(山村)百太郎。

 そして、下ヨイチ場所があったモイレから(関)こたま、ヤマウシから(中村)猶吉。*10

 全員が19歳か20歳で、男が6名、女が2名。先述の通り、コタンで指導的な立場にあった役アイヌの子や孫が多かった。

 万次郎にとっては、世代も近い見知った者たちであっただろう。8人は、開拓使の手配によって東京に向かうことになる。

 出発前、彼らには着替えを入れるための行李と、和服、下着、茣蓙、手拭いが開拓使から配布され、きちとこたまの2人の女子には鏡も与えられた。

 札幌に集合した万次郎たちは、おそらく開拓使の担当者とともに札幌から陸路で函館に向かった。

 もちろん自動車も鉄道もない時代。札幌―函館間に敷設予定の馬車道路さえ翌年6年の完成を待たねばならない。

 万次郎たち8人は徒歩で300キロ近く距離のある札幌-函館間を踏破したと思われる。 *11

 

*8 余市出身のアイヌが東京に向かうにあたって開拓使は、男子には1人あたり5円、女子には7円の手当を与えた。しかしそれは和人労働者の1カ月分の賃金より安く、働き手を失った家族にとっては長期にわたっての労働力低下をまかなえるような額ではなかった。

*9 1872年12月31日(明治5年12月2日)を最後に、日本は太陰暦から太陽暦に切り替わり、翌日1873年1月1日が明治6年1月1日となった。1872年までの日付は西暦のものである。

*10  「留学生」の若者たちの姓(( )の中)は出発時にはまだなく、後につけたものである。北斗の「その頃に至ってからやっとシャモ並に苗字も必要になって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢になったのである」(『我が家名』)とあるように、万次郎たちは東京滞在中に姓を名乗ったと思われる。

(実際に、万次郎の述懐を裏付けるように明治6年11月4日付「郵便報知新聞」に、小樽、高島、余市の生徒が和名を名乗りたいと申し出た、とあり、戸籍上の登録とは別に、名乗りだしたのはこの時期ではなかったかと思われる。ただし、札幌、石狩、夕張の出身者については、明治5年の出発時に早急に姓を付けられていたようで、そのため、故郷の親と別の姓をつけてしまった者もいた。『《東京・イチャルパ》への道』)。

*11 札幌-函館間の移動に関しては、陸路であったという他には、詳しいことはわからない。

 

●蒸気船に乗り横浜へ

 函館についた万次郎たち8人の余市アイヌの「留学生」たちは、蒸気船に乗って横浜に向かうことになる。

 それがなんという名の船だったのかは不明だが、「おそらくこういう船だったのだろう」と推測することはできる。

 実は万次郎ら余市の8名は第2班で、すでにほかの札幌・小樽・高島・石狩・夕張出身のアイヌの男女27名は先発隊としてすでに函館を出港していて、万次郎たちの出発より1カ月も前に東京に着いていたのだ。

 彼ら先発隊27名は、6月16日に函館からアメリカの郵船エリエール号(太平洋郵船会社所属)*12に乗船、10日後の26日に横浜に到着している。

 万次郎たちが乗った蒸気船が同じ郵船会社のものかどうかは不明だが、先行組と日程的には差異がないので、エリエール号と同等の経路・速力を持つ汽船であると推測される。

 蒸気船に初めて乗った万次郎が、どのような感想を持ったかは想像するしかない。

 万次郎は海のアイヌ――ヨイチウンクルである。ヨイチウンクルは古くから小舟を駆ってオホーツク海を渡り、その交易圏は樺太沿海州にまで及んでいた。

「板子一枚下は地獄」――万次郎はそんな北海の漁師でもある。

 また、鰊漁に湧く余市は、北前船のルートでもある。

「船」というものに人一倍の関心があったであろうと私は推測する。

 余市の海で漁をする中で、沖合に巨大な蒸気船を見ることもあったかもしれない。煙を吐く巨大な鉄の船に乗り込み、城のような船内で10日あまりも生活したことは、万次郎の心に文明への驚異を与えたのではないかと思う。

 

*12 太平洋郵船会社所属(SS Ariel 1738トン)。1855年建造。横浜―函館間を定期運行したが、代替船の場合や、増便の場合は別の船が就航することもあった。(函館市函館市地域史料アーカイブ 函館市史 通説編2 第2巻より)

 

●仮開通したばかりの鉄道で横浜から東京へ

 万次郎ら余市アイヌの若者は、8月7日、横浜港に到着する。10日あまりの船旅を終え、横浜で2泊してから8月9日の朝、東京へ向かった。この時乗ったのが、彼らが来る2ヶ月前にの明治5年6月12日に品川―横浜間が仮開通したばかりの鉄道であった。*13

 万次郎たちにとってもくもくと煙を吐きながら高速で走る蒸気機関車は、蒸気船以上に珍しかったことだろう。

 ましてや、東京人の多くも、まだ汽車に乗ったことのなかった時期である。

 残念ながら、万次郎たち余市組8名が横浜や東京に来た際の記録はない。

 人数的にも少なく、彼らは支給された和服を来ていたであろうし、それほど目立たなかったのかもしれない。

 だが、先行組については、そうではなかったようだ。先発隊の札幌・石狩・小樽・夕張・高島の27名のアイヌの「東京留学生」たちの一団は、その道中で、群衆に取り囲まれ、好奇の目にさらされることとなった。当時の新聞にこう書かれている。

 

開拓使にては蝦夷の人民を開化せんがため蝦夷の(サッポロ)其他の土人(アイノ)なるもの男女二十七人を米国郵船(アーリエル)に乗組せ一昨二十一日横浜へ到着せり昨日鉄道の汽車へ乗せて東京へ送れり。この土人は人種異にして其行装も奇怪なれば見物人群衆せり素より玩弄至愚の野蛮人なれば日本内部の都府を目撃させ文明の景況を観せ且つ諸々の職業を教導して開化を要せんがためなりと」

(6月28日「日新真事誌」『日本初期新聞全集』第38巻227ページ)*14

 

 先行組は、「其行装も奇怪なれば見物人群衆せり」と書くくらいなので、目立つアイヌの装束を着ていたのかもしれない。しかし、彼らも余市組と同様、和服を支給されているとすれば、むしろこれは引率の和人が「目立たせる」ためにアイヌの衣装を着るよう指示していた可能性もある。

 なにせ、「日本内部の都府を目撃させ文明の景況を観せ且つ諸々の職業を教導して開化を要せん」という、これから始まる開拓使の「アイヌに教育を与える」というプロジェクトをアピールしなければならないのだ。そのためには彼らが、日頃から和人と接して日本語とアイヌ語を操るバイリンガルであることも、和人に協力してコタンをまとめる指導的な立場のアイヌであることも無視して「素より玩弄至愚の野蛮人」でなければならなかったのだろう。

 一方で彼らの中の1人は、新聞記者の取材に対して次のように語っている。

 

「東京に来て、その〈開化〉に驚いたかと聞かれたが、特別驚きはしなかった。以前北海道にお役人が来た時に、アイヌが取り囲んで見物したところ、殴られたり叱られたものだが、今日東京に来てみたら、東京の人々も変わりはしない。だから、東京の人がアイヌより開化しているとは思えない」*15

 

 今となっては誰が発した言葉かはわからないが、なんとも痛快なコメントではないだろうか。

 

*13 正式開通は1872年10月。品川-横浜(現在の桜木町駅)間24キロを35分で走った。

*14 『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会)からの引用。

*15 1872年(明治5年)7月付『新聞雑誌』第52号(『日本初期新聞全集』第40巻180ページ)を要約、『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会)より。

 

●寄宿舎へ到着

 余市組より一足先に汽車で東京に着いた札幌・石狩・小樽・夕張・高島の先行組の27人は、まずは渋谷にあった開拓使の農業実習施設「第三官園」に徒歩で向かい、そこで荷を下ろした。

 当初は、ここで全員が「農業研修」を受ける予定だった。

 しかし、年少者と壮年者に分けられ、年少者は芝増上寺の「開拓使仮学校附属土人教育所」で学習を、壮年者は「第三官園」で農業実習を行う、という方針に変更になった。

 さらに、学習班と農業実習班の入れ替えがたびたび行われ、その都度生徒の移動が行われた。

 先行班がそのようなことになっているとは知らず、万次郎たち余市組8名は8月9日に横浜から東京に到着。先に到着してた27名に合流して35名となった。

 8月13日には余市組を歓迎する宴があり、酒肴が振る舞われた。

 その日、万次郎はほかの地域のアイヌの若者たちと出会い、大いに語ったことだろう。

 だが、その後アイヌの若者たちは、開拓使のずさんな計画と度重なる方針転換に翻弄されることになる。

 そして、多くの「留学生」が慣れない東京での、常時監視される寄宿舎生活、食生活の違いなどによって体調を崩していく。

 幾人もの脱走者や退学者が出て、最終的には4名のアイヌ留学生と1人の赤子がこの「留学」のために命を落とすこととなったのである。

 そして、万次郎もまた、その体が病に蝕まれてゆき、一時は危篤状態にまで陥ってしまうのである。

 次回、万次郎たちの「留学生活」を追ってみたい。

(つづく)

 

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第2回)

第1章       《イヨチコタン》違星北斗の幼年期

 

1 違星北斗の誕生

 

違星北斗はいつ生まれたか?

 アイヌ歌人として知られる違星北斗は、北海道の余市(よいち)町で生まれた。

 1901年(明治34年)、もしくは1902年(明治35年)のことである。

 現在、最も入手しやすい著作『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)の年譜には次のように書かれている。

 

 一九〇二年 一月一日、北斗(本名瀧次郎)、父甚作(文久二年一二月一五日生)と母ハル(明治四年九月生)の間の三男として、余市郡余市町大字大川町に生まれる。

 

 現在ではこの「1902年(明治35年)1月1日生まれ」が定説となっていて、人名事典などにもそのように掲載されている。

 この生年月日は、違星北斗の調査を行った早川勝美氏が1967年(昭和42年)に発表したものである。

 

 北斗の戸籍を調べているうちに、明治三十四年に生まれると、どの記録にも出ているが戸籍簿では明治三十五年一月一日出生となっている。出生届は明治三十五年一月九日、父違星甚作、同亡母ハル参男となっている。

(早川勝美より谷口正氏への書簡、「北斗についての早川通信」 *1)

 

 もともと北斗は「明治34年生まれ」とされていたのだが、調査のために余市を訪れた早川氏が役場の除籍簿を調べたところ、北斗の戸籍上の生年月日が「明治35年1月1日」であること、また、その出生届が「明治35年1月9日」に提出されていることを確認し発表したのである。

 その調査結果が草風館版『違星北斗遺稿 コタン』84年版の年譜に採用され、❝公式データ❞となったのだ。

 だが、早川氏は次のようにも書いている。

 

「コタン」の年譜は北斗自ら記してあったものであるが、遠縁に当る梅津トキ氏によると「十二月の暮も明けた頃」であったとしている。

(「違星北斗の歌と生涯」『山音』48号、1967年10月、山音文学会)

 

 生前の北斗自身は、「1901年(明治34年)生まれ」と自分の生年を言っていた。北斗の死の翌年――1930年(昭和5年)に発行された最初の『違星北斗遺稿 コタン』(希望社版)でもそうなっている。

 しかし北斗の親戚の梅津トキ氏が「十二月の暮も明けた頃」という、「明治34年の暮れ」とも「明治35年の初め」ともとれる曖昧な言い方での証言を残しているのが気になるところである。北斗は1901年(明治34年)の年末から1902年(明治35年)の1月1日(明け方?)までのどこかのタイミングで生まれたのであろう。北斗自身の認識では「1901年(明治34年)の生まれ」であるようだが、役所には「1902年(明治35年)の1月1日生まれ」として届け出た、ということではないだろうか。

 この連載ではできるだけ北斗の自己認識を尊重したいので、北斗が実際に使用していた生年月である「1901年(明治34年)12月生まれ」説を採りたいと思う。

 

*1 1966年(昭和41年)5月に札幌市在住の早川勝美氏が勇払郡穂別町の研究者・谷口正氏に送った手書きの手紙のこと。早川氏は余市町で北斗の親戚である梅津トキ氏から北斗の生い立ちや家族関係についての聞き取りを行っており、手紙にはその時の内容が書かれている。後に「違星北斗の会」を主宰し北斗の資料を収集した木呂子敏彦氏が、この手紙をワープロ打ちし、「北斗についての早川通信」という表題をつけた。木呂子敏彦氏については後述。

 

 ●違星北斗の「本当の名前」は

 誕生日と同様に、広く知られている違星北斗の本名「瀧(滝)次郎」(たきじろう)についても、「本来の名前ではない」という証言がある。

 

 北斗の姓名は違星瀧次郎といい、北斗は号である。然し、瀧次郎というのは、実は誤まってこうなったので「竹次郎」というのが親のつけた本当の名前であった。

 彼の長兄は「梅太郎」といい、それで彼が生まれた時、親は「松竹梅」から来たものか、「竹次郎」と名づけた。ただ役場にとどけ出る手続きが面倒なので、これを代書人に依頼したのだが、その時口頭で「タケジロウ」といったものらしい。その時の発音が代書人の耳には「タケジロウ」でなくて「タキジロウ」と聞こえたのである。そこで「ああよろしい」というわけだ。早速竹次郎が瀧次郎と変って届け出られてしまった。かくて、瀧次郎は終生の彼の名前となってしまったのである。

 事実、彼の両親をはじめ、アイヌの仲間たちは、皆彼を北斗とも瀧次郎ともよばず「タケ」とよんでいた。私は何回となく「タケ タケ」と話しかけているアイヌを見たものだ。

 このことは、私は北斗自身の口からも聞いているので、間違いないことである。

(古田謙二*2から湯本喜作*3への書簡、「湯本喜作『アイヌ歌人』について」*4)

 

 古田謙二は余市小学校の訓導(教員)で北斗が親しくつきあった和人の友人である。

古田によると違星北斗の本当の名前は「竹次郎」であり、それが代書屋への伝達ミスで「瀧次郎」と戸籍に登録されてしまった、という。

 北斗は親しい家族やアイヌの友人たちからは「竹次郎」「タケ」と呼ばれ、学校時代の先生や職場などの和人社会では戸籍名である「瀧次郎」と呼ばれることになった。*5

 明治の後期に生まれた北斗は、祖父・万次郎(アイヌ名ヤリへ)や父・甚作(アイヌ名・セツネクル)の世代のように「アイヌ名」を持たなかった(と思われる)。しかしある意味、祖父や父と同様に、アイヌ社会(コミュニティ)にのみ通じる名前(タケ)と、和人社会向けの名前(瀧次郎)の二つを持っていたともいえる。

 「アイヌ社会用」「和人社会用」の二つの名前の間でアイデンティティーが揺れ動いたと思われる竹次郎/瀧次郎は、のちに自らの意志で三つ目の名前を持つことになる。すなわちそれが「北斗」である。「違星北斗」と名乗った「竹次郎/瀧次郎」は、二つの名前―二つの世界を文学によって自分の中で統合していく――。

 

 このように、違星北斗については、その生年月日や本名といった基本的な情報でさえ曖昧にされたままにされてきたのである。わたしが「違星北斗北斗研究」の必要性を訴えるゆえんである。

 

*2 古田健二は余市小学校の訓導(教員)で、のちに句誌「緋衣」を主宰した。古田を北斗の恩師とする資料があるが、古田は年齢が二、三歳北斗より上であることから、共通の趣味である俳句でつながった、北斗にとってはアイヌ民族に対してシンパシーのある和人の年上の友人、といったところだと思われる。のちに古田は1930年(昭和5年)版の『違星北斗遺稿 コタン』の原稿を整理をした。古田と北斗の関係については項を改め詳述する。

*3 湯本喜作は1963年(昭和38年)に『アイヌ歌人』という本を出版した。その本を湯本が北斗をよく知る古田謙二に献本したところ、古田から北斗に関する間違いなどを指摘した手紙がきた。さらにその手紙にはこれまで知られていなかった北斗に関することも書かれていた。『アイヌ歌人』については項を改め詳述する。

*4 古田謙二と湯本喜作の書簡は、昭和30年前後に『違星北斗の会』を主宰し、違星北斗の資料収集と顕彰活動につとめた木呂子敏彦氏のご子息から譲り受けたもの。ワープロ打ちされた書簡には、木呂子氏によって「湯本喜作『アイヌ歌人』について」という表題をつけられている。『違星北斗遺稿 コタン』では知ることができなかった数多くの事実が記されているが、個人情報を含んでいるため全編をそのまま公開することは難しい。

*5 この「竹次郎」という名前は、北斗も好んで名乗っていたようで、金田一京助の『あいぬの話』に「竹次郎」の表記が見えるほか、雑誌『自働道話』大正13年5月号と同11月号には「竹二郎」の名前での投稿も見える(「竹二郎」の「二」が北斗によるものか、「次」の誤植かは不明)。

 

 

2 余市コタン

 

イヨチコタン

 違星北斗が生まれた北海道余市(よいち)町は、日本海に突き出た積丹半島の付け根にあり、小樽より西に20キロ、札幌からは50数キロの距離にある。

余市(ヨイチ)」はアイヌ語地名「イヨチ」の転訛で、「それ(蛇)が多い所」が由来だとされる。

 

 海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。

 イヨチコタン(余市村)は其の頃、北海道でも有名なポロコタン(大きな村)でした。

違星北斗「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」)

 

 北海道がアイヌの人々の天地であった時代、「イヨチコタン」は北斗のいうように、ポロコタン(大きな村)だった。その名は他の地域のアイヌにも知られており、遠く離れた太平洋側のアイヌの伝説にも語られている。

 また歴史の上でも、「コシャマインの戦い」や、「シャクシャインの戦い」といった和人とアイヌとの戦いの中にも余市アイヌが登場することから、古くから知られているコタンであった。

 その余市町を流れる余市川の河口近くに、北斗が生まれ育った大川町の「コタン」があった。

 「コタン」といっても、その言葉でイメージされるような――たとえばアイヌ文化を紹介する資料や漫画『ゴールデンカムイ』に登場するような「茅葺き屋根の伝統的なアイヌの家屋(チセ)が並ぶ風景」ではなかった。

 北斗自身、生まれ育った余市のことを次のように紹介している。

 

 私は違星といふアイヌです。私が生れた所は札幌に近い余市(よいち)といふアイヌの村落ですが、この村落は早く和人に接触したのと、そこから中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出したのとで、アイヌの村落中で一番能く日本化した所です。小民族が大民族に接触する場合にはどこでもさうでせうが、そこには幾多の悲惨な物語が伝へられてゐます。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」*6)

 

 余市や小樽のような日本海側の地域には、漁業、とりわけ「鰊(ニシン)漁」という巨大な産業があり、古くから和人と交易していたアイヌの人たちは、後に直接漁場で使役されるようになっていった。

 かつて余市中に散在していたアイヌコタンは、いつしか和人の街に飲み込まれてゆき、北斗が生まれた「大川コタン」も、和人の市街に囲い込まれていた。

 北斗の家もアイヌ特有のチセではなく、和人の労働者と同様の板張り・畳敷きの家であった。ただ、円状に並ぶ家の配置と、熊の檻、そしてアイヌが神々に祈りを捧げるために設えた祭壇が、かろうじてそこがアイヌコタンであったという痕跡を残していた。

 しかし彼らのコタンが「日本化」したといっても、全く和人と同じような生活をしていたわけではなかった。「コタン」ではアイヌの信仰が守られ、アイヌ語も日常的に話されていた。イオマンテ(熊送り)などの祭りも行われていた。

 彼らがアイヌ文化やコミュニティを失わずにいられたのは、北斗がいう「中里徳太郎といふ、アイヌきつての豪傑を出した」ということも関係していると思われる。中里徳太郎は余市コタンの村長格で、北斗の叔父にあたる。余市アイヌの互助組織をつくって教育や授産、蓄財に力を尽くしたというこの中里徳太郎については、北斗自身が詳しく語っているので項を改めて詳述する。

 北斗の生家は漁師を家業にしていた。「違星漁場」と名付けたバラックの漁舎を持ち、漁船も所有していたようだが、生活は決して楽ではなかった。

 

 けれどもいゝ漁場は大方和人のものになつてゐたので、生活の安定はとても得られませんでした。一方同族の状態を顧みますと、汗水を流してやつと開拓して得たと思ふ頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷つてゐるアイヌも大勢ゐました。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」より)

 

 違星北斗が生まれた時代、社会には歴然としたアイヌへの差別があった。

 

*6 伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(『沖縄教育』1925(大正14)年6月号。『伊波普猷全集』11巻所収)は、大正14年3月16日に、金田一京助に連れられて参加した「第2回東京アイヌ学会」で違星北斗が行った講演を伊波普猷が記録したもの。

 

 ●余市アイヌの伝説・昔話

 和人街に囲まれた余市の旧コタンの中で、当時の余市アイヌの人々はアイヌの文化をできる限り守ろうとした。余市コタンには、彼らのルーツや古い生活に関わる伝説がいくつも残っており、幼い北斗も祖父や父母から、余市アイヌの伝説や違星家の先祖にまつわる昔話を聞いて育った。のちに北斗や彼の兄・梅太郎がそうした昔話について触れている。*7

 たとえば違星家に伝わる伝承に、祖先がオタルナイより来た、というものがある。オタルナイ(小樽市銭函)にいた先祖が、海の神(シャチ)の怒りをかい、海を漂流して、イヨチコタン(余市)にたどりついた、という話である。

 また、先祖が漁の途中で「千里眼」の状態になったが、その秘密を他の人に話してしまったために呪われて、違星家の男児は代々病弱になってしまったという話もある。

 さらに、沙流川流域(太平洋側)のアイヌの一団が余市を襲撃したが、コタンコロカムイ(フクロウ神)によって救われたという話もあり、余市コタンが古くから他地域のアイヌとの交流や衝突があった場所であることがわかる。

 北斗の家には神々を祀る祭壇(ヌササン)があり、そこにはイナウ(北斗は「イナホ」「イナヲ」と表記)や弓矢・鉄砲・槍・刀などとともに熊の頭骨があった。神聖なものとして飾られていたというが、北斗の青年期にはその祭壇も朽ち果ててしまっていたという。

 そんな違星家の祭壇には他に、一本の「槍」が近年まで飾られていたという証言がある。その槍は祭りの夜にコタンに現れた巨大な人食いの魔物(人食い熊とも)を倒したもので、「ワタナベのヤリ」(由来不明)と呼ばれていたという。

 

*7 違星家の昔話については次のような資料を参考にされたい。

余市アイヌの伝説」『北海タイムス昭和5年9月 (北斗の兄・違星梅太郎 談)

http://iboshihokuto.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_01ee.html

北大講演会資料「違星北斗童話集」(余市の伝説でないものもあり)。

http://iboshihokuto.o.oo7.jp/iboshihokutomukashibanashi.pdf

 

 ●「違星」という姓の由来

  違星北斗の「違星」という極めて珍しい姓に関しては北斗が「我が家名」で語っている。

 

 明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の構矢となったのである。

 戸籍を作った当初はアイヌ独特の名附け方法で姓名を決めたものも少くない。万次郎はイソツクイカシヘ養子になったのではあるが、実父伊古武礼喜イコンリキの祖先伝来のエカシシロシが※であった。これをチガイに星、「違星」と宛て字を入れて現在のイボシと読み慣らされてしまったのがそも/\違星家である。

 私はこの急にこしらへた姓名が、我が祖先伝来の記号からその源を発してゐたことは誠に面白く又敬すべきであると心ひそかにほゝ笑むのである。

 (「我が家名」『違星北斗遺稿コタン』所収、初出『小樽新聞』昭和2年12月25日)

 

 違星家の姓の由来は入り組んでいる。

 祖父・万次郎の父はイコンリキ(伊古武礼喜)といった。アイヌ社会ではエカシシロシと呼ばれる父系に伝わる家紋がある。そのエカシシロシ(家紋)が「※」だったと「我が家名」には書かれている。しかしこれは間違いである。

初出の『小樽新聞』では

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となっていた。この家紋が希望社版の編集の際に、「※」にされてしまい、その間違いがそのままその後の希望社版にも受け継がれてしまったようだ。

 また、引用した文章の「エカシシロシ」という言葉も初出の『小樽新聞』では「イカシシロシ」*8である。

 違星北斗余市アイヌの言葉を文字で書く時に、この「イカシ」のように余市で実際に話されていた発音で書いているようなのだが、彼の死後、それを知らない編集者などの手で、「エカシ」というよく知られた「標準的アイヌ語」の表記に直されてしまうことがある。それによってアイヌ語の「余市方言」のようなものが消されてしまっているとすれば、とても残念なことである。この稿では北斗の用いた「イカシシロシ」を使用したい。

 さて、違星家は、養子に入ったイソヲク(上の引用文では「イソツク」と誤記されている)の家なのだが、「違星」という姓は、万次郎の実父のイカシシロシから来ている。*9

 また、もともと

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の印は、日本の家紋用語で「×」の部分を「チガイ」と呼び、「・」の部分を「ホシ」といった。そこから万次郎の実父は「チガイボシ」と読ませるつもりだったらしい。しかし、「違(ヰ)+星(ホシ)」(=イボシ)と読みならされるようになってしまったということである。

 

●祖父・万次郎

  違星北斗の祖父・万次郎は、1872年(明治5年)、アイヌ初の留学生の一人として、東京に留学させられたアイヌの若者のうちの一人。成績優秀で、後に北海道庁に雇われたという。

 江戸時代末期から明治・大正を生きた祖父・万次郎の人生は、そのままアイヌの激動の時代に重なっている。

 万次郎は明治初頭、新政府のアイヌ民族同化政策のもと、若き日を留学生として東京の開拓使学校で学んだ。優秀な成績をおさめ、その後、道庁の役人になり、普通のアイヌよりも早く姓を名乗ることを許されたと自慢げに語っている。しかし、にもかかわらず、晩年はコタンに戻って他のアイヌとともに苦しい生活を強いられた。

 ほろ酔いで孫たちに東京時代の思い出を語ったという万次郎の人生は、政府の同化政策の栄光と挫折を象徴している。幼い北斗は、この万次郎がほろ酔い加減で語るモシノシキ(国の真ん中=東京のこと)時代の昔話を祖父自身から聞き、東京に憧れを抱くことになった。その東京への思いは北斗の中で生き続け、祖父の留学から50年後、北斗はついに東京の土を踏むことになる。

 次回は、そのような東京への憧れを北斗に抱かせたアイヌ初の東京留学生であった祖父・万次郎の生涯を追ってみたい。

 

*8 「イカシシロシ」(翁の印)は男系に伝わる紋で、同様に女系には「フチシロシ」(媼の印、北斗はフジシロシと表記している)という紋があった。

*9 北斗の曽祖父イコンリキ、イソヲク(イソオクとも)の名は、余市の場所請負人であった林家(松前藩から委託を受けて、アイヌ民族との交易を差配していた商家)の記録に「林家文書」に残っている。

「林家文書」の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」(1859年)に、

 

 イコンリキは役職「脇乙名」(副首長、指導者「乙名」に次ぐ副指導者といった立場)、45歳。

三男として北斗の祖父・万次郎の幼名「ヤリヘ」の記述あり。

 

 イソヲクは役職「土産取」、年齢49歳。妻「かん」と、娘「てい」(万次郎の妻、北斗の祖母)の名も見える。

 この「乙名」「脇乙名」「土産取」といった役職は、交易に関わる役職で和人側が与えたもので、旧来のアイヌコタンの中での立場を表すものではないが、時代とともに立場を表すものになっていったと思われる。

 

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第1回)

                                                                                            山科清春違星北斗研究会)

 

●はじめに――違星北斗との出会い

「どうして、その人を調べようと思ったんですか」「きっかけはなんですか?」

 アイヌ歌人違星北斗のことを調べていると言うと、そんな質問を受けることがある。

 私が違星北斗と出会ったのは、札幌の書店で著作『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)を手にとったのが最初だ。たしか1995年ごろだと思う。

 『コタン』をパラパラとめくり、そこにある言葉の力強さに驚いた。そしてページを繰るのをやめられなくなった。

 

  滅び行くアイヌの為めに起つアイヌ 違星北斗の瞳輝く

  アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ

  俺はただアイヌであると自覚して 正しい道を踏めばよいのだ

 

 そこには「滅び行く民族」と呼ばれたアイヌ民族の復興のために、一人立ち上がった青年の姿があった。

 本来は「良き人間」を表す言葉である「アイヌ」という民族呼称が、差別の対象とされたことによって、よくないイメージがついてしまった時代。そのことを嘆き悲しむだけでなく、その言葉の意味を変えて「新しくよい概念」にしなければならない、そのためにはアイヌアイヌとして自覚し、自らアイヌと名乗って正しく立派な人物になること――そう考えた北斗は自らの人生をアイヌ民族復興のために捧げる決意をしたのだ。

 

違星北斗27年の生涯

 違星北斗は1901年(明治34年)に北海道余市町大川町で生まれた。北斗は号で、戸籍名は瀧次郎。本当の名は竹次郎という。

 彼が生きた時代、アイヌの人々は「滅び行く民族」などという一方的で理不尽な呼称を押し付けられようとしていた。

 かつて北海道の主であったアイヌ民族は、明治以降の和人社会の中で、少数者として差別と貧困の中で生きることを強いられ、《同化政策》によってアイヌ語の使用や伝統的な狩猟なども禁じられた。酒によって身を持ち崩すものや病気によって命を落とすものも少なくなかった。

 そんな中、違星北斗は敢然と声を上げた。

アイヌが滅びてなるものか。違星北斗アイヌだ! アイヌはここにいるぞ!」

 彼が武器にしたのは《言葉》だった。

 一人のアイヌとして、自らのおかれた状況や和人社会への怒り、日常の雑感などを《短歌》に詠んだのだ。

 アイヌである違星北斗が日本文学の短歌を用いて表現したことを知って、ときどき、「アイヌ民族の彼が、我が国古来の大和言葉で『和歌』を詠んでくれるなんて、日本人としてうれしい」と喜ぶ人もいるが、もちろんそんなおめでたいことではない。

 端的に言えば、そうするしかなかったからだ。当時、アイヌの人々の言葉がそのまま載ることなどほとんどなかった新聞紙面の中で、唯一、読者の書いた文字が一字一句そのまま掲載されるのは文芸欄――とりわけ俳句よりも文字数が多くて内容の制約の少ない「短歌欄」――だった。そこに狙いを定めて、和人によるアイヌへの差別に対する怒りや、苦難の中にある同胞へのメッセージ、自分の思いなどを、31文字の短歌の形にして北斗は新聞社へ送ったのだ。

 日本社会の欠陥を多くの人々に伝えるためには、日本語を使うしかない。それは 使えるものを最大限効果的に使った結果であり、緊急避難であり、切実な戦略でもあったのだ。

 例えて言うなら、囚われた監獄の中から、唯一手に入れた錆びた釘で壁に穴を穿ち、その小さな穴から血で書いたSOSの紙片を外の世界に押し出すようなものかもしれない。

 違星北斗は「新聞の短歌欄」を今のツイッターのような「短文投稿システム」として活用し、生の言葉を多くの同胞に伝えていった。

 それによって和人の中にも、アイヌに対する考え方を変える人が出てくるのである。

 さらに北斗は、北海道中に点在するアイヌコタン(アイヌの集落)をめぐって、志を同じくするアイヌ同族と次々に会い、同志を増やしていこうとした。

 星と星とを線でつなぎ星座をつくるように、各地に点在するアイヌコタンをつなぎ、アイヌ同志のネットワークをつくろうとしたのだ。

 そのようにしてアイヌ民族の復興のために一生をささげる覚悟をした違星北斗だったが、彼にそのための時間は充分には与えられなかった。

 旅の途上、結核に倒れ、闘病の末わずか27歳で亡くなってしまうのだ。

 

違星北斗の理想

 私は札幌の書店で『違星北斗遺稿 コタン』を手に取り、違星北斗が死の一年半前に書いた「アイヌの姿」という文章を読んだ時、その中のある記述に釘付けになった。

 

  「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)*1

 そこに存在の意義がある。鮮人が鮮人で貴い。アイヌアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう嗚呼我等の理想はまだ遠きか。                            (「アイヌの姿」)

 

 すべての民族が、その個性を伸ばし、互いに尊敬しあえる世界。現代では「ダイバーシィティ」という言葉で表されるような考え方だが、これは昭和の初め、アイヌの一青年が掲げたものなのだ。

 残念ながら北斗が「我等の理想はまだ遠きか」と嘆いたこの《理想》は、80年たった現代でもまだ成し遂げられていない。

アイヌの姿」のこの部分を読んだ時、私は嗚咽し涙が止まらなくなった。その後何年ものあいだ、購入した『コタン』のその文章を読む度に涙が溢れ出た。今でも読めばやはり心を激しく揺さぶられる。

 宇宙の高みから国境のない地球を見つめているようなスケールの大きさに圧倒されたのかもしれないし、80年前にこのようなコスモポリタン的な人物がいたということに感激したのかもしれない。違星北斗のその感覚は「違星北斗」というコズミックな響きのある名前にはとても似合っている気がした。

 これが、私が違星北斗という存在に惹かれ、彼のことをもっと知りたいと思ったきっかけだった。

 

*1 この1行は、後藤静香の『権威』という著作の中の「女性」という文の一部を北斗が引用したもの。

 

●『違星北斗遺稿 コタン』の問題点

 私は違星北斗のことを調べ始めた。しかしすぐに壁にぶちあたってしまった。

 札幌で購入した『違星北斗遺稿 コタン』(草風館、1995年版および増補版)は、北斗の遺稿を集めたものだったが、「遺稿集」という性格上、北斗の歌や文章だけが収録されていて、生前の彼に関わった人の話や、第三者による論考・評伝などは含まれていない。客観的な資料がないのだ。

 おまけに、作品は時系列には並んでいないので、北斗がいつ詠んだ作品なのかがわかりにくかった。

 さらに、満27歳で死んだ北斗には、自らの生涯を振り返る時間などなく、また自身の作品を冷静にチェックする時間もなかった。北斗の死後すぐの1930年(昭和5年)に初版の『コタン』が出たが、本人が編集に関われなかった分、多くの間違いが後世に残ることになった。

『コタン』はもちろん良い本だが、この本だけでは情報が少な過ぎて、彼の生涯を辿ろうにも辿りきれないというもどかしさがあった。

 そこで、他の資料で北斗のことが書かれているものはないかと探すのだが、北斗について書かれている文献自体が非常に少ない上、あったとしても内容が『コタン』からの引用であったり、「アイヌの抵抗詩人」「アイヌの啄木」「アイヌ三大歌人の一人」などという、誰がつけたかわからないキャッチフレーズの《型》にはまった、誇張や想像の多いフィクションめいた記事が多かった。ようするに違星北斗の実像を知るために役に立つ資料はほとんどなかった。

 つまり、違星北斗のことをちゃんと調べている人がいなかったのだ。

「しょうがない、自分でやるしかない」と思い、私は違星北斗の情報の整理をはじめた。2001年頃のことだ。これが《研究》を始めたきっかけだった。

 

●「違星北斗研究」のはじまり

 まずは、『コタン』ではわかりにくい作品の時系列をはっきりさせようと思い、彼が生きた27年間を、出来る限り詳細に「年表」にまとめることから始めた。

 当時は「研究」といった大それた感覚ではなく、アイドルのファンが切り抜きを集めたり、漫画マニアが作品の分析や考察をするような感覚に近かったかもしれない。

 違星北斗の手による原稿だけでなく、北斗が関係した人物や著書や組織の記録などから北斗についての記述を拾い出し、年表の空白を埋めていく作業を続けた。

 作業を進めていくうちに『コタン』の記述の誤りや、そこに掲載されていない新発見の作品、知られていない事実などが次々と見つかるようになった。

 そのため「これはどうも一人でやるには荷が重すぎる」と考えるようになり、ウェブサイト「違星北斗.com」を開設して、一般に公開することにした。それが2004年のことである。

 違星北斗の作品をテキスト化したり、新発見の作品などを掲示板で公開するようにしたところ、予想外に反響があった。

 アイヌ文化の研究者や関係者から、北斗に関わるさまざまな情報やアドバイスをサイトにいただけるようになってきたのだ。

違星北斗.com」が違星北斗研究の「場」=情報センターとなっていくようで嬉しかった。

 

違星北斗の生きた時代を探ってゆく

違星北斗の生涯を本にまとめてみてはどうか」と声をかけていただくことは何度もあったが、その度に「まだ、わからないことが多すぎるので……」「まだ年表に空白があるので……」などと言い訳をして逃げてきた。

 もうひとつ、「違星北斗の生涯」を調べていくうちに、次第に、北斗やその関係者に関わることだけでなく、彼らをとりまく「時代の空気」のようなものをもっと知りたい、そのことを知らなければ北斗の生涯は書けない、と思うようになった。

 しかし、そうこうしているうちに、新たな資料が次々に見つかり、いよいよ言い逃れができなくなってきた。

 1955年(昭和30年)ごろに違星北斗の資料を収集しその業績への顕彰を行った「違星北斗の会」の代表、木呂子敏彦氏の御遺族とは2008年に出会い、大量の違星北斗関係の手紙や新資料のコピーをいただいた。2014年には、違星北斗の1925年(大正14年)の雑記帳を読むことができ、北斗の年表にあった大きな空白を埋めることができた。

違星北斗の生涯」についてそろそろまとめることができるのではないか、と思っていたところで、ご縁があり寿郎社ウェブサイトでの執筆の機会をいただけることになった。

 次回より、違星北斗という人物の生涯を、彼が生きた「時代の空気」に注目しながら迫ってみたいと考えている。

《今後の予定》
 第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期 
 第2章 《イカシシロシ》違星北斗の少年期
 第3章 《モシノシキ》違星北斗の東京時代   
 第4章 《シシリムカ》違星北斗幌別・平取時代 
 第5章 《フゴッペ》違星北斗余市時代 
 第6章 《ガッチャキ》違星北斗の行商時代 
 第7章 《コロボックル》違星北斗の闘病期
 おわりに《コタン》違星北斗の死とその後


(連載第1回終了)