今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第1回)
●はじめに――違星北斗との出会い
「どうして、その人を調べようと思ったんですか」「きっかけはなんですか?」
アイヌの歌人・違星北斗のことを調べていると言うと、そんな質問を受けることがある。
私が違星北斗と出会ったのは、札幌の書店で著作『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)を手にとったのが最初だ。たしか1995年ごろだと思う。
『コタン』をパラパラとめくり、そこにある言葉の力強さに驚いた。そしてページを繰るのをやめられなくなった。
アイヌと云ふ新しくよい概念を 内地の人に与へたく思ふ
俺はただアイヌであると自覚して 正しい道を踏めばよいのだ
そこには「滅び行く民族」と呼ばれたアイヌ民族の復興のために、一人立ち上がった青年の姿があった。
本来は「良き人間」を表す言葉である「アイヌ」という民族呼称が、差別の対象とされたことによって、よくないイメージがついてしまった時代。そのことを嘆き悲しむだけでなく、その言葉の意味を変えて「新しくよい概念」にしなければならない、そのためにはアイヌがアイヌとして自覚し、自らアイヌと名乗って正しく立派な人物になること――そう考えた北斗は自らの人生をアイヌ民族復興のために捧げる決意をしたのだ。
●違星北斗27年の生涯
違星北斗は1901年(明治34年)に北海道余市町の大川町で生まれた。北斗は号で、戸籍名は瀧次郎。本当の名は竹次郎という。
彼が生きた時代、アイヌの人々は「滅び行く民族」などという一方的で理不尽な呼称を押し付けられようとしていた。
かつて北海道の主であったアイヌ民族は、明治以降の和人社会の中で、少数者として差別と貧困の中で生きることを強いられ、《同化政策》によってアイヌ語の使用や伝統的な狩猟なども禁じられた。酒によって身を持ち崩すものや病気によって命を落とすものも少なくなかった。
そんな中、違星北斗は敢然と声を上げた。
「アイヌが滅びてなるものか。違星北斗はアイヌだ! アイヌはここにいるぞ!」
彼が武器にしたのは《言葉》だった。
一人のアイヌとして、自らのおかれた状況や和人社会への怒り、日常の雑感などを《短歌》に詠んだのだ。
アイヌである違星北斗が日本文学の短歌を用いて表現したことを知って、ときどき、「アイヌ民族の彼が、我が国古来の大和言葉で『和歌』を詠んでくれるなんて、日本人としてうれしい」と喜ぶ人もいるが、もちろんそんなおめでたいことではない。
端的に言えば、そうするしかなかったからだ。当時、アイヌの人々の言葉がそのまま載ることなどほとんどなかった新聞紙面の中で、唯一、読者の書いた文字が一字一句そのまま掲載されるのは文芸欄――とりわけ俳句よりも文字数が多くて内容の制約の少ない「短歌欄」――だった。そこに狙いを定めて、和人によるアイヌへの差別に対する怒りや、苦難の中にある同胞へのメッセージ、自分の思いなどを、31文字の短歌の形にして北斗は新聞社へ送ったのだ。
日本社会の欠陥を多くの人々に伝えるためには、日本語を使うしかない。それは 使えるものを最大限効果的に使った結果であり、緊急避難であり、切実な戦略でもあったのだ。
例えて言うなら、囚われた監獄の中から、唯一手に入れた錆びた釘で壁に穴を穿ち、その小さな穴から血で書いたSOSの紙片を外の世界に押し出すようなものかもしれない。
違星北斗は「新聞の短歌欄」を今のツイッターのような「短文投稿システム」として活用し、生の言葉を多くの同胞に伝えていった。
それによって和人の中にも、アイヌに対する考え方を変える人が出てくるのである。
さらに北斗は、北海道中に点在するアイヌコタン(アイヌの集落)をめぐって、志を同じくするアイヌ同族と次々に会い、同志を増やしていこうとした。
星と星とを線でつなぎ星座をつくるように、各地に点在するアイヌコタンをつなぎ、アイヌ同志のネットワークをつくろうとしたのだ。
そのようにしてアイヌ民族の復興のために一生をささげる覚悟をした違星北斗だったが、彼にそのための時間は充分には与えられなかった。
旅の途上、結核に倒れ、闘病の末わずか27歳で亡くなってしまうのだ。
●違星北斗の理想
私は札幌の書店で『違星北斗遺稿 コタン』を手に取り、違星北斗が死の一年半前に書いた「アイヌの姿」という文章を読んだ時、その中のある記述に釘付けになった。
「水の貴きは水なるが為めであり、火の貴きは火なるが為めである」(権威)*1
そこに存在の意義がある。鮮人が鮮人で貴い。アイヌはアイヌで自覚する。シャモはシャモで覚醒する様に、民族が各々個性に向って伸びて行く為に尊敬するならば、宇宙人類はまさに壮観を呈するであろう嗚呼我等の理想はまだ遠きか。 (「アイヌの姿」)
すべての民族が、その個性を伸ばし、互いに尊敬しあえる世界。現代では「ダイバーシィティ」という言葉で表されるような考え方だが、これは昭和の初め、アイヌの一青年が掲げたものなのだ。
残念ながら北斗が「我等の理想はまだ遠きか」と嘆いたこの《理想》は、80年たった現代でもまだ成し遂げられていない。
「アイヌの姿」のこの部分を読んだ時、私は嗚咽し涙が止まらなくなった。その後何年ものあいだ、購入した『コタン』のその文章を読む度に涙が溢れ出た。今でも読めばやはり心を激しく揺さぶられる。
宇宙の高みから国境のない地球を見つめているようなスケールの大きさに圧倒されたのかもしれないし、80年前にこのようなコスモポリタン的な人物がいたということに感激したのかもしれない。違星北斗のその感覚は「違星北斗」というコズミックな響きのある名前にはとても似合っている気がした。
これが、私が違星北斗という存在に惹かれ、彼のことをもっと知りたいと思ったきっかけだった。
*1 この1行は、後藤静香の『権威』という著作の中の「女性」という文の一部を北斗が引用したもの。
●『違星北斗遺稿 コタン』の問題点
私は違星北斗のことを調べ始めた。しかしすぐに壁にぶちあたってしまった。
札幌で購入した『違星北斗遺稿 コタン』(草風館、1995年版および増補版)は、北斗の遺稿を集めたものだったが、「遺稿集」という性格上、北斗の歌や文章だけが収録されていて、生前の彼に関わった人の話や、第三者による論考・評伝などは含まれていない。客観的な資料がないのだ。
おまけに、作品は時系列には並んでいないので、北斗がいつ詠んだ作品なのかがわかりにくかった。
さらに、満27歳で死んだ北斗には、自らの生涯を振り返る時間などなく、また自身の作品を冷静にチェックする時間もなかった。北斗の死後すぐの1930年(昭和5年)に初版の『コタン』が出たが、本人が編集に関われなかった分、多くの間違いが後世に残ることになった。
『コタン』はもちろん良い本だが、この本だけでは情報が少な過ぎて、彼の生涯を辿ろうにも辿りきれないというもどかしさがあった。
そこで、他の資料で北斗のことが書かれているものはないかと探すのだが、北斗について書かれている文献自体が非常に少ない上、あったとしても内容が『コタン』からの引用であったり、「アイヌの抵抗詩人」「アイヌの啄木」「アイヌ三大歌人の一人」などという、誰がつけたかわからないキャッチフレーズの《型》にはまった、誇張や想像の多いフィクションめいた記事が多かった。ようするに違星北斗の実像を知るために役に立つ資料はほとんどなかった。
つまり、違星北斗のことをちゃんと調べている人がいなかったのだ。
「しょうがない、自分でやるしかない」と思い、私は違星北斗の情報の整理をはじめた。2001年頃のことだ。これが《研究》を始めたきっかけだった。
●「違星北斗研究」のはじまり
まずは、『コタン』ではわかりにくい作品の時系列をはっきりさせようと思い、彼が生きた27年間を、出来る限り詳細に「年表」にまとめることから始めた。
当時は「研究」といった大それた感覚ではなく、アイドルのファンが切り抜きを集めたり、漫画マニアが作品の分析や考察をするような感覚に近かったかもしれない。
違星北斗の手による原稿だけでなく、北斗が関係した人物や著書や組織の記録などから北斗についての記述を拾い出し、年表の空白を埋めていく作業を続けた。
作業を進めていくうちに『コタン』の記述の誤りや、そこに掲載されていない新発見の作品、知られていない事実などが次々と見つかるようになった。
そのため「これはどうも一人でやるには荷が重すぎる」と考えるようになり、ウェブサイト「違星北斗.com」を開設して、一般に公開することにした。それが2004年のことである。
違星北斗の作品をテキスト化したり、新発見の作品などを掲示板で公開するようにしたところ、予想外に反響があった。
アイヌ文化の研究者や関係者から、北斗に関わるさまざまな情報やアドバイスをサイトにいただけるようになってきたのだ。
「違星北斗.com」が違星北斗研究の「場」=情報センターとなっていくようで嬉しかった。
●違星北斗の生きた時代を探ってゆく
「違星北斗の生涯を本にまとめてみてはどうか」と声をかけていただくことは何度もあったが、その度に「まだ、わからないことが多すぎるので……」「まだ年表に空白があるので……」などと言い訳をして逃げてきた。
もうひとつ、「違星北斗の生涯」を調べていくうちに、次第に、北斗やその関係者に関わることだけでなく、彼らをとりまく「時代の空気」のようなものをもっと知りたい、そのことを知らなければ北斗の生涯は書けない、と思うようになった。
しかし、そうこうしているうちに、新たな資料が次々に見つかり、いよいよ言い逃れができなくなってきた。
1955年(昭和30年)ごろに違星北斗の資料を収集しその業績への顕彰を行った「違星北斗の会」の代表、木呂子敏彦氏の御遺族とは2008年に出会い、大量の違星北斗関係の手紙や新資料のコピーをいただいた。2014年には、違星北斗の1925年(大正14年)の雑記帳を読むことができ、北斗の年表にあった大きな空白を埋めることができた。
「違星北斗の生涯」についてそろそろまとめることができるのではないか、と思っていたところで、ご縁があり寿郎社ウェブサイトでの執筆の機会をいただけることになった。
次回より、違星北斗という人物の生涯を、彼が生きた「時代の空気」に注目しながら迫ってみたいと考えている。
《今後の予定》
第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期
第2章 《イカシシロシ》違星北斗の少年期
第3章 《モシノシキ》違星北斗の東京時代
第4章 《シシリムカ》違星北斗の幌別・平取時代
第5章 《フゴッペ》違星北斗の余市時代
第6章 《ガッチャキ》違星北斗の行商時代
第7章 《コロボックル》違星北斗の闘病期
おわりに《コタン》違星北斗の死とその後
(連載第1回終了)