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現在『今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯』を連載中です。更新情報は寿郎社webサイト・Twitterでお知らせします。

今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第4回)

 

第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期(承前)

 

3 祖父・万次郎の東京〈モシノシキ〉

 

※ 違星万次郎たちの東京への「留学」あるいは「強制就学」については、『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室、2008年)によるところが非常に大きい。素晴らしい研究にあらためて謝意を表したい。

 

●「清光院」での寄宿生活

 1872年(明治5年)8月9日*1違星北斗の祖父・万次郎ら8人の余市アイヌの「留学生」は東京に到着し、寄宿舎に入って先に着いていた27名と合流した。

 この寄宿舎について北斗は「芝の増上寺清光院とかに居た」*2と書いている。

 この書き方だと、増上寺関連の仏教施設に寄宿していたように思えるが、明治5年にはこの「清光院」の建物と土地は開拓使によって買い上げられており、すでに増上寺の関連施設ではなかった。が、在学生からすると「増上寺清光院にいた」という感覚だったのかもしれない。

「清光院」の場所は今日の芝・増上寺の境内ではなく、参道にある芝の「大門」の北側、飯倉神明宮(現在の芝大神宮)の北辺にあったようだ。

(ちなみに、幕末の地図を見ると、増上寺の南側に「清光寺」という寺院があるのだが、それではない)

 北斗自身、祖父の暮らした「増上寺清光院」について調べていたような形跡がある。

 万次郎の上京から53年後の1925年(大正14年)の北斗の雑記帳ノートの中の住所録に「芝公園 増上寺(浄土宗大本山) 神林周道 師」の名と、増上寺の電話番号の記載があるのだ。

 北斗が増上寺の神林周道と接触したのは、その年2 月に上京してから、ノートを使用していた1925年11月までの間であろうと思われる。(ただし、神林の氏名・電話番号を知っただけだった、あるいは手紙や電話などでのやりとりだけだった可能性はある)

 神林は浄土宗の僧侶である。交友関係が広く、様々な著名人と交流があったようだ。意外なところでは泉鏡花らの怪談(百物語)の会に参加しており、その怪談が現代にも伝わっている。*3

 残念ながら、北斗と神林周道の対話の記録は残っていない。だが、上京した北斗が増上寺で半世紀前の祖父の「留学」について、神林から話を聞いた、あるいは聞こうとしたのはほぼ間違いないであろうと私は思う。

 

*1 1872年(明治5年)の日付は「西暦(グレゴリオ暦)」を使用。

*2 『違星北斗遺稿 コタン』(草風館)「我が家名」。

*3 神林周道は浄土宗の布教師。『文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会』(東雅夫編、ちくま文庫)に「深夜の電鈴」という神林の怪談が掲載されている。

 

開拓使仮学校の中の教室

 万次郎たち「留学生」が実際に学んだところは、開拓使仮学校の中にあった「北海道土人教育所」(以下、「教育所」)である。*4仮学校の一室が「教育所」の教室にあてられていた。

 その学舎はもともと増上寺境内の「方丈」(僧侶が生活する場所)であったものを、開拓使が1872年(明治5年)に買い上げたものであった。*5

 開拓使仮学校は、現在の増上寺および「東京プリンスホテル」の北、地下鉄「御成門」駅近くにある「芝公園4号地」(「みなと図書館」がある付近)にあった。公園内には往時を伝える「開拓使仮学校跡地」の記念碑が立っている。*6

 1872年6月末に余市以外のアイヌ「留学生」が上京した当初は、全員が渋谷の第三官園で「農業実習」をする予定で、彼らはそこに荷をおろした。

 しかし、7月には年齢の若い者を開拓使仮学校に附属した「土人教育所」で勉強させることとなり、18名が増上寺の仮学校に移動した。

 万次郎ら余市アイヌが合流した8月には、渋谷から移動した18名がこの仮学校内に寝起きしていたが、手狭になったため、開拓使は宿舎として「清光院」を買い上げ、「教育所」組は9月27日にそちらに転居した。*7

 だが、最終的には出身地が同じ者を同じ寄宿舎に集める形で移動を行い、1872年12月末の時点では小樽・高島・余市出身者19名*8が芝の「清光院」に寄宿し、札幌・石狩・夕張の出身者15名が渋谷の農業実習施設「第三官園」で生活した。第三官園の15名のうち3名は渋谷から芝の「教育所」に通学している。

 万次郎ら余市アイヌは、全員、寄宿舎「清光院」から開拓使仮学校内の「教育所」まで徒歩5分程度の距離を通学した。

 

*4 本稿では違星万次郎ら余市アイヌおよび小樽・高島の「留学生」がいた「教育所」について中心に語り、渋谷の「開拓使第三官園」で農業実習をしていた石狩・札幌・夕張アイヌの「留学生」に関する記述は省く。こちらの詳細は『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室)を参考にされたい。

*5 徳川家の菩提寺増上寺明治維新後の「廃仏毀釈」の中で広大な土地を政府機関に召し上げられ、縮小を余儀なくされていた。

*6 「開拓使仮学校跡」の記念碑には次のように書かれている。

北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治5年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移して規模も大きくする計画であったから仮学校とよばれた。生徒は、官費生、私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治5年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わせた。仮学校は明治8年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治9年8月14日には札幌農学校となった。」

 ちなみに記念碑には「附属 土人教育所」のことには一切触れられていない。

*7 『《東京・イチャルパ》への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会編、現代企画室、2008年)

*8 本来なら20名となるが、うち1人が11月に死亡したため19名となっている。

 

●勉強の内容

 開拓使によるアイヌ子弟の教育は、開拓使次官・黒田清隆の肝いりによるものである。

 だが、運営する側には、明確なビジョンはなかったようで、アイヌの「留学生」を呼んでみたはいいが、カリキュラムなども何も決まっておらず、場当たり的・泥縄式に後手後手で決められていったようだ。

 そもそも農業実習の予定で呼ばれたが、芝の教育所での学問と渋谷の官園での農業実習に振り分けられ、その班分けも当初は年長者が農業実習、若年者が学問となっていたが、度々入れ替えが行われ、最終的には小樽・高島・余市出身者が教育所、札幌・旭川・夕張出身者が渋谷の第三官園と、出身地によって配属先が分けられることとなった。*9

「教育所」での授業は「漢学」(読み書き)、「書」(習字)、「算術」(算盤)。女子は「算盤」ではなく「裁縫」で、「和裁」(機織、単物、襦袢、綿入れ)と「洋裁」(シャツの仕立て、ミシンなど)も学んだ。

 授業に使うテキストも、特にアイヌの「留学生」用に用意されたものではなく、主に既存の小学生向けのものを使用*10し、教える教員もアイヌの言語や文化に通じた者ではなかった。授業は全て日本語で行われ、アイヌ子弟のために配慮の行き届いたものではなく、読み書きの教科書で和人社会の一般常識や歴史・地理などの知識も学ばされた。

「書」(習字)では「いろは」のほか数字・手紙文を練習し、郷土の親や親戚に手紙を書くことも推奨されたようだ。

「算術」は多くの者が2桁以上の掛け算・割り算を学び、成績上位者は平方根を求める開平法、図物(図形)なども習った。

 

*9 ただし、渋谷の官園の宿舎から「教育所」に通った生徒もいたことから、最終的には就学内容ではなく、出身地域ごとに宿舎を分けることになったようだ。

*10 使用した教科書は以下のようなものである。
A『啓蒙手習の文』(福沢諭吉)……小学生用の文章手習いの書。「いろは」や数字、時間、干支、日本の地理に関する単語などを学ぶ。

B『史略』(文部省)……小学校の歴史の本で、日本史、中国史、世界史などを学ぶ。

C『単語編』(文部省)……日本の日常生活に関する単語を学ぶもの。「書」(習字)に使用。

D『郡名産物日本地理往来』(正木征太郎)……日本各地の地理と名産品などを学ぶ。Aの修了者用。

E『泰西勧善訓蒙』(箕作麟祥)……小学校・中学校程度の道徳で使用するもの。A、B、Dの修了者用。(『《東京・イチャルパ》への道』より)

 

●「教育所」の日常生活

 アイヌの「留学生」たちの日常生活はどのようなものであったのだろうか。資料によれば、

 

「留学中のアイヌは皆和人の風俗に倣はしめ、男は髭を剃り髪を切り、女は入墨耳環を廃し髪を結ひ、特に男には洋服を着け靴を穿ち帽を被らせたり」*11

 

 とあり、上京に際してアイヌの「留学生」たちは名前や生活習慣を和人風に改める「風俗改め」を強いられた。これには非常に大きな抵抗を感じた者も多かっただろう。*12

また、「教育所」の生徒たちは寄宿舎生活を送っており、規則正しい生活を求められた。*13

 一日のスケジュールは次のようなものである。

 午前5時30分の起床し、「室外整列」。これは「点呼」ということであろう。

 6時30分より朝食および復習(自習)、8時から正午まで4時間の授業。

 正午より30分間の昼食と休憩をはさんで、12時30分から14時まで1時間半の授業。30分間の休憩のあとは14時30分から「体操」1時間。

 15時30分から入浴、夕食。そして18時から20時までは復習(自習)の時間がとられており、その後「室外整列」(点呼)のあと、21時に就寝。

 朝起きてから寝るまで分刻みのスケジュールで「点呼」まであった。

 時間に追われる毎日を送る現代の我々からするとそれほど違和感はないかもしれないが、これは「明治」の始めの話である。そもそも「1時間」「1分」「1秒」といった時間の概念や、「12時」「13時」といった西洋式の時刻の概念(定時法)が導入されたのが1873年明治6年)のことなのだ。一般の日本人にとっても、季節によって「一刻」という時間の長さが変わる「不定時法」にまだ馴染んでいた時代だった。

 そんな「1時間」という「時」の感覚がない、家庭に時計も行き届いていない時代に、まるで軍隊のようなスケジュールで生活することをアイヌの「留学生」たちは求められたのである。開拓使としては、アイヌの「留学生」を過酷な待遇に置こうという意図はなかったとしても、彼らにとって、ストレスを伴うものであったことは想像に難くない。

 毎週、水曜の午後と日曜は授業がなく、自由時間だった。

 生徒たちは自由時間に外出し、支給される費用の中から買物などもできたが、外出中も「土人取締」と呼ばれる役人によって常に監視されていた。

「留学生」たちは官費学生という扱いであり、学費や寄宿舎の賄い料として月7円50銭が支給され、生活に必要な衣料品・学用品・日用品も支給された。*14

 食事も「留学生」たちを苦しめた。日々の食事は和食もしくは洋食であったが、白米中心のメニューだった。

 授業が始まってしばらく経つと、アイヌの「留学生」たちが次々と体に異常を訴え始める。

 万次郎も、しだいに体調がおかしいことに気づく。

 手足のしびれ、むくみ、倦怠感、食欲不振、心臓の苦しさ……。

 そして、ついに万次郎は倒れた。

 

*11 『北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育』「四、山本惣五郎の履歴」より。『アイヌ史資料集第二期出版第四巻』(阿部正己)、(初出『歴史地理』第37巻6号 1921年〔大正10年〕6月1日)

*12  時代はやや違うが、強制的に髭を剃り落とされ、髪を和人風に結わされて、改名もさせられため、食事を断って死んだ江戸時代後期の長万部の首長トンクルの話を松浦武四郎が伝えている。明治初期にあっても、アイヌの多くにとって名前や生活習慣を和人風に改める「風俗改め」に対して大きな抵抗があったことは間違いないだろう。

*13 このスケジュールは1874年のもので、開拓使仮学校、同女学校とも同じものだった。1873年明治6年)1月1日の改暦・定時法導入以前のスケジュールは不明。

*14 支給された衣服は和服・洋服・下着・帽子・足袋・履物など。学用品は半紙・筆・石板・石筆など。日用品はマッチ・灯芯・炭・手拭・シャボン・洗濯シャボン等が支給された。

(『《東京・イチャルパ》への道』より)

 

●最初の病死者

  医者*15の診断によれば、「脚気(かっけ)」であった。

脚気」は江戸時代から原因不明の病として知られ、特に江戸で多く見られたことから「江戸患い」と呼ばれた病気である。万次郎たち、アイヌ「留学生」たちもまた、江戸=東京に来てすぐに「江戸患い」にかかってしまったのだ。

 今でこそ、脚気ビタミンB1の欠乏によって引き起こされるものと判明しているが、それが農芸化学者・鈴木梅太郎によって証明されるのは、この時代から40年近く後の1910年(明治43年)のことである。

 馴染みのない白米中心の食事と、常に監視され時間に縛られているストレスがおそらく万次郎の体を衰弱させ、入院治療*16させることになった。

 そして12月、退院した「清光院」に戻った万次郎は、入院前とは何かが違っていることに気づいたことだろう。

 ともに学んできた「留学生」の1人が亡くなっていたのだ。

 11月13日の夕方、小樽出身の女性・瀬上はと(アイヌ名・ハモテ)が33歳*17で死んだのであった。神式で葬儀が行われ、縁なき東京の芝・増上寺近くの青松寺に葬られた。

 だが、死者は彼女1人にとどまらなかった。

 

*15 万次郎が診察を受けた医師の名前は不明だが、他のアイヌの「留学生」はお雇い外国人の医師・ホフマンやアンチセル、医局医師・尾本涼海らに診察されている。

*16 入院した病院および入院期間は不明。

*17 当初、開拓使では27歳とされていたが、のちに調査により上京時33歳であったことが判明する(『《東京・イチャルパ》への道』より)。

 

●帝都《モシノシキ》の逃亡者

 退院した万次郎が「教育所」にもどって間もなく、この「留学生活」がどれほどアイヌの「留学生」たちにストレスを与えていたかが伺える「事件」が起こる。

 12月26日、小樽出身のヤエソンコが、芝の「清光院」を休憩時間に無断で抜け出し、宿舎に戻らなかったのである。

 ヤエソンコは「中里八十五郎」(なかざと・やそごろう)という日本名を持っていた、上京時23歳の男性。記録によっては「八十八」(やそはち)となっているものもあり、混乱するのでここではアイヌ名「ヤエソンコ」を使用する。

 脱走の原因は不明だが、彼は農業実習をしていた渋谷の「第三官園」から移籍してきたばかりだった。それまで約4カ月農業実習をしてきたのが、「教習所」での勉強のクラスに移されたことになる。緑にあふれた「官園」で牧畜や農耕の技術を学んでいた彼が、他の者から4カ月遅れた形で勉強を始めなければならないという急激な環境の変化に対するストレスもあったに違いない。

 そして、東京にともにやってきた、まさに家族のように身を寄せ合い助け合ってきた同郷の年上の女性・ハモテが死んでしまっていたことも大きかったのかもしれない。

 開拓使はヤエソンコの服装や人相を警察に伝え、捜索を依頼したが、ヤエソンコをすぐには見つけることができなかった。

 彼が見つかったのは2週間後の1873年明治6年)1月9日、場所は芝三島町だった。三島町は清光院のすぐ近くである。

 彼が異郷の地で14日間、どのように過ごしていたのかは今となってはわからない。

 その時期世の中は「旧暦」から「新暦」への切り替えで大混乱の日々だった。そんな明治5年から6年に移り変わる年の暮れ、真冬の東京をあてもなくさまよったヤエソンコは、寒さと空腹に耐えかねて仲間と温かい食事の待つ寄宿舎のある芝に戻ってきたのかもしれない。「帰りたくない」という気持ち、「見つかって楽になりたい」という気持ち、脱走という事件を起こしてしまったことから「帰るに帰れない」という怖さ。様々な逡巡を抱きながらも、その足は仲間たちのいる「清光院」にむかっていたのではないかと思う。

 東京での「教育所」の生活に耐えきれなかったヤエソンコは、「留学」を中断し、4月に帰郷する。彼にとっての東京での5カ月は、万次郎のように「美しい思い出」になりえなかったに違いない。

 

●続発する罹患者

 ヤエソンコが「教育所」に戻ってきた3日後の、1873年1月12日、札幌出身で、「第三官園」で農業実習を行っていたイコリキナ(古川伊吉)が発症した。

3月27日には余市出身で「教育所」で学んでいたハシノミ(坂東きち)が原因不明の苦痛を訴え出した。3月29日に子どもを死産していたことが判明する。

 4月には万次郎が、再入院する。

 前年12月に退院してから、3カ月で再び症状が悪化し、一時は危篤状態となったという。

 この2回目の入院では約6カ月入院することになるのだが、この万次郎が不在の間に、さらに何人かが発病し、命を落とすことになった。

 6月15日、16日には石狩出身のラウシ(佐部雷次)、高島出身のシンタ(高根新太)、小樽出身のイクハ(永山幾八)が、北海道の函館病院に移され、入院する。重症患者が続出し、お雇い外国人医師などの優秀な東京の医師も匙を投げる中で、故郷に近い函館の病院に移すことになったのだと思われる。

 だが、7月17日、函館病院に入院していたラウシが死亡したという知らせが届く。23歳であった。アイヌ「留学生」2人目の死者である。(ハシノミの赤子を入れると3人目)

 

●東京で「違星」姓を名付ける

 10月頃、万次郎は2度目の入院から戻った。

 1873年明治6年)11月4日付の『郵便報知新聞』に、「東京で学ぶ小樽・高島・余市アイヌの生徒が和名を名乗りたいと申し出た」とある。

 これは、北斗の「明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢となったのである」(『我が家名』)の記述と一致する。小樽・高島・余市ということは「教育所」にいる者たちである。

 ただ、小樽は亡くなったハモテと退学したヤエソンコを除くと7名となり、それに高島3名、余市8名を足すと18名となる。北斗の「12名」という数字とは一致しない。

 実際に戸籍に反映されたのはその後かもしれない。また、札幌・石狩・夕張のアイヌ「留学生」は上京時に和名を付けられていたようで、北斗の言う「アイヌの苗字の嚆矢」は正確ではない。北斗は万次郎から聞いた話をそのまま書いたのだろう。

 ただ、「違星」という苗字が、故郷から遠く離れた東京の地で生まれたということは、間違いない。

 

●新しい命の誕生

 東京で亡くなる命がある一方、東京で生まれる命もあった。

 夫婦揃って「留学」した例が2組あり、そのうちの一組、札幌出身の「留学生」であるイワオクテ(能登岩次郎)・ウテモンガ(能登もん)夫妻に12月1日、子どもが生まれた。

 この時生まれた子どもは男の子で、酉年だったことからか「酉雄」*18と名付けられた。

 夫のイワオクテは、渋谷の「第三官園」から芝の「教育所」に通学していたので、万次郎とも親しかったであろうと思われる。

 のちに、万次郎の孫・違星北斗は1928年(昭和3年)1月に「能登酉雄氏」を訪ねる計画を立てており*19、祖父の「学友」の息子、能登酉雄とは交流があったようだ。

 

*18 能登酉雄の生誕地は『能登酉雄談話』(高倉新一郎)や『文献上のエカシとフチ』などでは「1873年明治6年)石狩町花畔生まれ」となっているが、実際は両親ともに「留学中」に生まれており正確には「東京生まれ」ということになろう。

*19 『自動道話』一六六号(1928年〔昭和3年〕2月)「手紙の中から」

 

●万次郎、慢性脚気で退学する

 東京にやってきて二度目の春。1874年(明治7年)の3月、「教育所」に1人の若者が新たに入学した。万次郎の同郷・余市郡ハルトロ出身のサラルトツ(宇生文吉)である。*20

 一方で、万次郎の病状(慢性の脚気)はいよいよひどくなり、勉学を続けるのに耐えられなくなってきたため、彼は「教習所」に度々帰郷を申し出るようになった。

 4月17日、「第三官園」で農業実習を学んでいた夕張出身のアフンテクル(夕張安次郎)が亡くなった。39歳か40歳だった。*21アイヌ「留学生」3人目の病没者であった。

 アフンテクルは夕張の「乙名」でコタンの指導者であった。

 同じ頃、万次郎は「教育所」を辞して帰郷する決意を固め、「教育所」に訴えた。「教育所」=開拓使がそれを許可したことで、万次郎は他の者よりも少し早く「留学」を終えることになった。

 万次郎は4月26日に横浜から北海道開拓使の附属船「玄武丸」*22で北海道に向かった。

 1年と9カ月の東京生活だったが、そのうち約半分の9~10カ月くらいは2度の入院で寄宿舎から離れ、病院で暮らしたことになる。

 さらに、万次郎がおそらく船上にあったであろう5月4日、罹病中だった札幌のイコリキナ(古川伊吾)が亡くなった。35歳か36歳*23だった。

 先のアフンテクルと同様、イコリキナはコタンの指導的立場にある「乙名」であり、彼の死は故郷サッポロのコタン社会にとっても大きな損失であった。彼が4人目の病没者となった。

 この自分の父「イコンリキ」と似た名前を持つ年長の男の死を、万次郎がどのように聞いたのかは不明である。所属も万次郎のいた「教育所」ではなく、渋谷の農業実習組であったため、どの程度の交友関係を持ったかもわからない。

 亡くなった「留学生」4人のうち、ハモテ、イコリキナ、アフンテクルの3名が30代半ばから後半であったことを考えると、やはり壮年の方が寄宿舎生活のストレスが大きなものだったのかもしれない。

 ところで万次郎は、すんなりと余市には帰れなかった。

 5月初頭、万次郎は直接余市に向かわず、まず函館の病院に入院して治療することとなった。「慢性脚気」は足の麻痺をもたらすため、あるいは歩行にも支障があったのかもしれない。

 しかし、数週間経っても、症状の改善は見られず、それならば故郷の余市に帰りたいと強く希望したため、1874年6月頃、違星万次郎は2年ぶりに故郷・余市の大川コタンの土を踏んだのであった。

 

*20 サラルトツ(宇生文吉)には榎本武揚陪審(付き人)という肩書があるが、余市出身のアイヌの青年がどのような経緯で榎本の付き人になったかは不明である。

*21 アフンテクルは上京時の年齢が38歳のため1874年には39歳もしくは40歳であったと思われる。

*22 玄武丸は北海道開拓使が新造した暗車(スクリュー)型蒸気船。901トン、100馬力、1872年米国ニューヨーク建造。乗客28名。ちなみに、万次郎が北海道に帰った3年後の1876年(明治9年)に開拓使長官・黒田清隆が乗船する開拓使の御用船から大砲が誤射され、小樽の一般市民の少女が死亡した事件があったが(「黒田長官大砲事件」「玄武丸事件」)、その「玄武丸」である。

*23 イコリキナは上京時34歳だったので、35歳もしくは36歳だったと思われる。

 

アイヌ「留学」の破綻

 それぞれのコタンでは指導者的立場にあった年長者のアフンテクルとイコリキナを相次いで失い、「留学生」たちの間にも悲しみと動揺が走ったことだろう。

 違星万次郎の離脱を開拓使が許したことも、その呼び水になったのかもしれない。

 他の「留学生」からも、一時帰郷の希望が度々出てくるようになっていた。

 特に切実だったのが、亡くなったイコリキナの遺族である。イコリキナは弟イソレウク(半野六三郎)とその妻トラフン(半野とら)、そしてイコリキナが養育していたオサーピリカ(うの)とともに、家族で「留学」していたのだ。イコリキナが亡くなったことで郷里の親も不安がっているため、小樽に一時帰郷したい旨を遺族たちは切実に訴えた。

 同じ頃、小樽出身のソーコハン(山本惣五郎)、イレンカ(丸木永吉)、アシラン(上村阿四郎)と、余市出身で中途編入のサラルトツ(宇生文吉)の4人の若者*24は、一般の生徒が通う「開拓使仮学校」への進学希望を申し出ていた。

「留学」生活をやめて故郷に帰りたい者が数多くいる一方で、10代の若者であったソーコハンらはもっと学びたいと希望したのである。

 アフンテクル、イコリキナと年長の2名が相次いで亡くなったこと、4人目の病死者となったイコリキナの死と、その家族3名が帰郷を申し出たこと、万次郎が病気で退学したこと……それらが積み重なるように起こったことによって、アイヌの「留学生」たちの間だけでなく、開拓使の中でも何かが変わったのだろうか。開拓使はこの「留学」事業に先がないということを認めざるを得なかったのかもしれない。

 開拓使が「留学生」一人ひとりから進路希望の聞き取りを行った結果、20名が帰郷もしくは一時帰郷を希望し、5名が「開拓使仮学校」への編入を希望した。

 そして帰郷もしくは一時帰郷を希望した20名は「一時帰郷の後に復学すること」を条件に帰郷を許され、それぞれの故郷に帰っていった。

 しかし再び東京に出て、復学しようとする者はあらわれなかった。

 

*24 上京時、ソーコハンとイレンカは16歳、アラシン15歳。サラルトツは不明。

 

●東京「留学」から帰郷した人々

開拓使仮学校」への進学を希望した5名とは、先に触れたソーコハン(山本惣五郎)、イレンカ(丸木永吉)、アシラン(上村阿四郎)、サラルトツ(宇生文吉)の4名に、石狩出身のシロスケ(麻殻四郎助)を加えた5名であった。彼らは希望通り「開拓使仮学校」に編入された。*25

 翌1875年(明治8年)、「開拓使仮学校」は札幌に移転して「札幌学校」となった。それに伴い、生徒たちも一緒に札幌に移り、彼らのうちの何名かは「通詞」など開拓使の吏員としての職を得ている。

 また、開拓使は、「留学」事業の「成果」を示すためなのか、進学せずに故郷に戻った者たちも役所で雇用する計画を立てており、実際に雇用された者もいた。*26

 その一方で、帰郷した札幌や小樽のアイヌの中には、和人にコタンを追われるように、別の地域に移住せざるを得ない人々もいた。

 伝統的な漁撈・狩猟を禁じられ、慣れない農業で身を立てなければならなくなった時、「留学生」の中には、東京で身につけた知識と能力を活かして、農業を指導したり、同胞の生活向上のために役所との交渉や申請、あるいは陳情などを行った者も少なくなかったと思われる。たとえば、札幌のイワオクテ(能登岩次郎)は、コタンの人々のために役所に農地の下付申請などを行っている。

 東京帰りの生徒たちは、都会で身につけた立ち居振る舞いや洋装のせいで気取っている思われたり、それを快く思わない人々に僻まれたり、侮蔑されたりすることもあったようだ。

 

*25 「開拓使仮学校」では和人と同じクラスではなく、アイヌ生徒5名だけのクラスが新たに設定された。

*26 進学組からはソーコハンが「開拓使等外三等出仕」で小樽勤務、サラルトツが「開拓使等外三等出仕」で刑法局勤務。ほかに「物産局」で煙草製造や養蚕などに関わる仕事の雇員となった者が複数いる。

 

●万次郎にとっての東京「留学」

 「祖父は開拓使局の雇員ででもあったらしい。ほろよい機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。

(『我が家名』)

 

 違星北斗のこの記述によると、万次郎は「留学」のあと「役人となった」と読める。

だが、『《東京・イチャルパ》への道』で明らかにされている就職者の中に「万次郎」は含まれていない。

 その後、万次郎は孫の北斗に自慢したように「開拓使の役人」になったのであろうか。

『《東京・イチャルパ》への道』では「万次郎が、二年間の勉学生活を通じて、自分も役人の一人になったということに、矜持をもっていたことがうかがえます」(92ページ)と書かれている。万次郎が東京に「留学」をしていたこと(それによって、官費を支給されていたこと)をもって、「開拓使の役人」であった、という解釈をとっているようだ。

 そうだったのかもしれない。

 上の北斗の記述も、そのように読むこともできる。

 だが一方で、私はやはり万次郎が何らかの開拓使の役人であったのではないかという考えも捨てることができないでいる。

 というのも、北斗以前にも、万次郎が役人になったと書いている者がいるからである。

 北斗は上で引用した「我が家名」を書いた1927年(昭和2年)の6年前――言論活動を始める以前の1921年(大正10年)に、

 

東京留学のアイヌにて卒業後、官吏に採用されたるもの三四人あり。余市の万次郎は東京拓(ママ)使出張所に奉職し

(「北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育」*27 

 

と書いている。少なくともこれは孫の北斗による万次郎の回想を引用したものではなく、第三者の客観的な記述であると思われる。この違星万次郎の「開拓使奉職」については今後の研究課題としたい。

 万次郎にとって、東京「留学」の「教育所」や「清光院」の思い出を孫たちに語ることは、それが彼にとって良い思い出であり得たからだろう。

 違星万次郎は、東京で病を得て、入退院を繰り返した。

 同郷の女性ハモテが亡くなった時は病院にいた。ラウシが函館で死んだ時も、入院中だった。夕張のアフンテクルの時は「教育所」にいたが、自分も病状が悪化して郷里への帰還を願い出ていた。そして小樽のイコリキナが亡くなった時は東京をあとにして、北海道に戻る途上だった。

 万次郎は仲間の悲劇の瞬間にあまり立ち会っていないのだ。

「留学」期間の約半分を、思い通りにならない体を病院のベッドに横たえ、天井を見つめて過ごしていた万次郎にとっては、みんながいる「清光院」や「教習所」は、「早く健康になって戻りたい」と思える場所だったのではないだろうか。

 

*27 『北海道開拓使及び三県時代のアイヌ教育』「四、山本惣五郎の履歴」より。『アイヌ史資料集第二期出版第四巻』(阿部正己)、(初出『歴史地理』第37巻6号、1921年〔大正10年〕6月1日)

 

●万次郎の結婚

 一時は危篤状態にまで陥り、回復のめどが立たないと医者も匙を投げてかけていた万次郎だったが、郷里の余市大川コタンに戻ると、「白米中心の食生活」ではなくなったためであろうか、脚気から回復したようだ。

 結局は北斗ら孫たちに囲まれ、万次郎は大正13年頃(72歳)まで長生きしている。

 ただ、万次郎は東京に「留学」したこと、違星北斗の祖父であるということ以外には、目立った業績やエピソードなどは記録にない。余市の大川コタンで、一介の漁師としてその生涯を送ったようだ。

 違星万次郎は、イソオクの娘てい(ホンカリ)と結婚した。*28イソオク家には男児がいなかったため、婿養子となった。

 生家のイコンリキの家には跡継ぎがおり「梅津」姓を名乗っていた。万次郎はイソオク家にイコンリキの父方の家紋に由来する「違星」という家名を与えた。これが「違星」家である。

 イソオク家はイコンリキ家より家格が下だったので、それに対する万次郎のこだわりもあったかもしれない。いずれにせよ、養家に生家由来の名前をつけるというのは、明治の始め、姓をつけた時代ならではのエピソードだろう。

 万次郎は妻ていとの間には跡継ぎとなる男児を授からなかったために同じ大川コタンの中から養子をもらうことになった。

 中里甚作(セツネクル)である。のちに違星北斗の父となる男であった。

 中里家は幕末のころ、万次郎の父・イコンリキと並ぶ余市の川村コタンの指導者、「惣乙名」イタキサンの家系であり、甚作は万次郎とともに東京に「留学」をした猪之助(幼名・ホンコエタ)*29の甥にあたる。

 この中里家からは、のちに余市アイヌの傑物として知られることになる中里徳太郎や、北斗と一緒に同人誌『茶話誌』やガリ版刷り同人誌『コタン』を作った幼馴染の親友・中里篤治(凸天)を生むことになる。

 

 次回は、違星北斗の父・甚作と母・ハル、そして兄弟たちのもとで違星北斗がどのような幼少期を送ったのかについて考えてみたいと思う。

 

*28 万次郎がていと結婚した時期は不明。上京前に結婚していた可能性もある。

*29 猪之助は東京で本家と違う市川姓を名乗ったため、中里姓ではない。

 

(つづく)