「今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯」(第5回)
第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期
●《中里》甚作
違星北斗の父・甚作(セネックル)は、1862年(文久2年)12月15日、余市の川村コタン(のちの大川町コタン)に生まれた。
甚作は北斗の祖父・違星万次郎の実子ではなかった。
甚作の実家は中里家といい*1、余市の川村コタンの「脇乙名」イタキサンから出た家系である。イタキサンは違星家の家名のルーツとなったイコンリキとならぶ指導者であった。
イタキサンには少なくとも四人の男児がいた。
三男が鯉太郎(幼名・コエタ)、四男が猪之助(幼名・ホンコエタ)という。四男・猪之助*2は万次郎とともに東京「留学」し、東京で市村姓を名乗ったことは前述したとおりである。
残念ながら、長男と次男の名前が資料*3からは欠落していてわからないのだが、このどちらかが、明治に「中里」を名乗った甚作の父親である。
《中里》甚作には兄が一人、弟が少なくとも二人おり、ほかに妹がいたようだ。
次男である甚作は跡継ぎのいない違星家に養子に行ったが、二人の弟――三男と四男――も同様に余市の大川コタンの跡継ぎのない他家に養子に行っている。
中里家を継いだ甚作の兄(中里家の長兄)はアイヌ名をイタク・エアシカイという。
大正・昭和初期の余市アイヌの「豪傑」・中里徳太郎の父親である。
日本名については「伯太郎」と「徳蔵」という二つの名前が残っている。
金田一京助は「あいぬの話」*4の中で中里徳太郎の父を「徳蔵」としている。
一方で、余市の郷土史家・佐藤利雄氏による「違星・中里家の関係図」には「伯太郎」とある。
どちらが正しいかは不明であるが*5、ここでは甚作の兄で中里徳太郎の父であるこの人物をアイヌ名「イタク・エアシカイ」で呼ぶこととする。
この中里家からは、中里徳太郎のほか、その息子で北斗の親友となった中里篤治を輩出しており、違星北斗の人生にも大きな影響を与えることになる。
*1 甚作が違星家に養子に入った時期は不明。明治初期であれば「中里」「違星」という戸籍上の姓はまだなかった可能性もあるが、便宜上、家名は戸籍上の姓で記す。
*2 「猪之助」を「猪之松」とする資料もあり。
*3 資料とは『林家文書』の「安政六年ヨイチ御場所蝦夷人名書 控」(1859年)。
*4 『金田一京助随筆集選集2思い出の人々』所収。
*5 「伯太郎」と「徳蔵」がそれぞれ別人である(徳太郎の父親が二人いる)可能性もあるが、ここでは「違星甚作の兄」=「中里徳太郎の父」=イタク・エアシカイと仮定している。
●甚作の兄、イタク・エアシカイの惨死
違星甚作の兄(中里徳太郎の父)であるイタク・エアシカイは、和人に集団暴行を受け、非業の死を遂げている。
北斗が残した記録があるので、少し長くなるが引用する。
中里徳太郎と云うアイヌの団長がいます。我々はこの人ありと誇りとする程正義の男、熱血の快男児であります。
この人の全生は奮闘に彩られて居ります。どうしてこの奮起したか。何かを語る挿話がある。
それは……父の遺訓、五十年前の昔話である。
『徳太郎よ。お前は子供でくわしい事はわかるまい。
しかし、よっくきけ。
この父は今シャモのため殺されるところであった。
残念で残念でたまらない。
俺は余市川の洪水で杣夫(ヤマゴ)の木材の流出をふせいでやった。
そして俺のために何萬石の損を助かったのである。
それでヤマゴ連中が俺にお礼のために、損失をまぬがれたお祝として御馳走してくれた。
そこまではよかったが、思えば残念である。
俺は帰ろうとした。
お礼を云うと立って下駄をはこうとしたら下駄がない。
どうしたろう、と さがしていたら、
『おやんじ、ナニしている』。
下駄がない。
『ナニ下駄がない? 生意気なことを云うな。アイヌは下駄なんかはいているか』
と不法な罵倒をあびせられた。
その時、並居る一同はこのアイヌ生意気だ、やってしまえ、と打ち叩かれた。
俺も酒に酔うているし、何しろ多勢に無勢で かなわない。
シャモの奴等は俺を殺すとて、手に兇器を持って
『殺せ殺せ! アイヌ一人ぐらいなんだ、やってしまえ』
と総立ちになって、さんざんな目にあわされた。
やっと逃げて、役場の小使様に助けてもらったからよかったが、小使様でも居なかったら、二度とお前の顔も見ることも出来なかったであろう。
シャモと云う奴は全く悪い者が多い。
徳太郎 お前は大きくなったら この恨みを晴らしてくれ。このかたきをとってくれ。
しかしながら この恨みを晴らせと云う事はシャモに腕づくで かたきをとれと云うのではない。
これからの世の中はなんと云うても学問がなくては偉い者になられない。
お前は一生けんめい勉強して そして偉い者になってこんなにいじめたシャモ共を学問の上で征服してやてくれ。
それが何よりのかたきうちであるのだ。わすれるなよ」
と申されて血みどろな父は抱いていた徳太郎の顔に熱い涙をはらはらとこぼされた。
徳太郎氏 五才の時であった。
子供心にも残念だ、よし!! 俺が大きくなって かたきをとらねばならぬ。何のことはない、父のひざで父と一所に一夜泣き明かした。
氏の父はそれが元で 脳に異常を起して まもなく非業な最後をとげた。
(違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」*6)
甚作の兄、イタク・エアシカイは善意によって和人の樵夫(きこり)の木材の流失を食い止め、莫大な損害を防いだにもかかわらず、酒の上での、「アイヌは下駄なんかはいているか」「殺せ殺せ! アイヌ一人ぐらいなんだ、やってしまえ」という、まことに理不尽な理由で集団暴行を受け、それが原因となって死んでしまったというのだ。この北斗の記録では息子の徳太郎5歳の時の出来事となっている*7。徳太郎は1877年生まれなので、これは1882年(明治15年)ごろの出来事となる。イタク・エアシカイの弟の甚作は20歳前後である。
北斗は同じ文章の中で「今より五十年前は『ナアーニ アイヌ一人ぐらい やってしまえ』の気風があったのであります」と繰り返し、その当時――明治初期――の北海道余市のアイヌと和人との間にはそのような「空気」が確かにあったのだということを強調している。
このあと、殺されたイタク・エアシカイの息子の徳太郎は、貧困生活を送りながらも、父親の遺言を守り、当時アイヌ子弟が入れなかった和人の小学校に直談判して入学し、漁場で働きながら学び続けた。やがて徳太郎は、授産や貯蓄の推奨、増資組合の結成、若者への修養の呼びかけなど、余市コタンの指導者としてアイヌの生活改善に尽くすことになる。
また、徳太郎は余市アイヌの先覚者として、北斗たちを導くことになるのだが、それについては後述する。
*6 「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎氏を偲びて」『沖縄教育』1925年(大正14年)6月1日号所収。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。
*7 同じ出来事を記した金田一京助の「あいぬの話」では徳太郎は9歳となっている。この話は違星北斗が金田一京助に話したものではなく、1918年(大正7年)に金田一が余市に行った際に、中里徳太郎から直接聞いたものである。余談だが、同じ夏、金田一は近文で金成マツ・知里幸恵とも会っている。
●万次郎と甚作――10歳違いの「親子」
中里甚作が違星家の養子となった時期は不明である。
ただ、子どもの頃でないのは間違いなさそうだ。というのも、1862年(文久2年)生まれの中里甚作と、1852年(嘉永5年)生まれの養父・万次郎の年齢差がわずか10歳しかないからである。
10歳差で「親子」というのは、いわゆる「婿養子」であれば、よくあることかもしれない。しかし甚作は違星家の婿養子ではない。
甚作の妻のハルは万次郎の娘ではなく、旧姓「都築ハル」*8というアイヌの女性である。
記録の上で、甚作が確実に違星家にいるのが確認できる時期は1892年(明治25年)である。その年――甚作が30歳のとき――妻のハルとの間に、違星家の跡取り息子としての第一子・梅太郎が生まれている。
つまり甚作が違星家に入ったのはそれ以前だと言える。
(仮に梅太郎が生まれる一年前に甚作が違星家に入ったとすれば、義父・万次郎が39歳、義母・ていが38歳の時ということになる。)
二人の間には娘が一人いた*9が、おそらく違星家の跡取りとなる男児の誕生は難しいと考えて、同じコタンの中里家から甚作を養子として迎え入れたのではないだろうか。
しかし、万次郎・甚作の「親子関係」については、よくわかっていない。
1901年(明治34年)の暮れ、三男・竹次郎(滝次郎=北斗)が生まれている。
父・甚作が40歳、祖父・万次郎が50歳の時である。
東京に「留学」した先進的なアイヌである祖父・万次郎と先祖から受け継いだ「熊取り」や「アイヌの伝統的な儀式」を重んじる、いわば「昔ながらのアイヌ」であったといえる父・甚作。
違星北斗は、この「両極端」ともいえる祖父と父の影響を受けて、育つことになる。
*8 余市の郷土史家・佐藤利雄氏による「違星北斗(瀧次郎)家系略図(昭和58年11月15日)」(私家版)では「都築 茗次郎の妹」とある(「違星ハル」については後述する)。
*9 違星万次郎と妻ていの子としては、テル(1887年〔明治20年〕生まれ=万次郎35歳の時の子)とキワ(1896年〔明治29年〕生まれ=万次郎44歳の時の養子)がいる。
●馬鹿正直な父上
正直で良い父上を世間では馬鹿正直だとわらってやがる
(違星北斗「志づく」)
違星北斗にとって父・甚作は「正直で良い父上」であった。
しかし世間はその甚作を「馬鹿正直だ」とわらう。
北斗にとって「正直」とはどういう意味を持っていたのだろうか。
「正直」という言葉を使った北斗のほかの短歌を見てみよう。
正直なアイヌだましたシャモをこそ 憫(あわれ)な者と 思ひしるなり
(違星北斗「志づく」)
(違星北斗「私の短歌」)
この二首では、「正直なアイヌ」「正直で亡びるアイヌ」といっても、父・甚作のことを直接言っているのではなく、北斗をとりまくアイヌの人々の一般的な状況を言っている。しかし歌に詠まれたアイヌ民族全体の姿は、甚作の〈世間に笑われる正直さ〉とも重なり合う。
誰かを騙して悪辣で栄える者たちがいる一方で、正直であるがゆえにだまされ、奪われ、それによって存亡の危機に直面する者たちがいる。
その「正直なアイヌ」たちが、どのような運命を辿ったか。たとえば甚作の兄、イタク・エアシカイがどうなったか――。
たち悪くなれとの事が 今の世に生きよと云ふ事に似てゐる
(違星北斗「医文学」)
たち悪くなれない正直な者が、馬鹿を見る。そんな世界は生きづらい……というのが北斗の実感だったにちがいない。父・甚作もまた、そういう「正直なアイヌ」だったのだろう。
東京「留学」をした先進的な祖父や、教育熱心な母親(後述)を持つ北斗にとっては、一番身近にいる「アイヌを代表するアイヌ」「アイヌらしいアイヌ」こそが甚作であったのだ。
甚作の印象について違星北斗の友人の小学校訓導・古田謙二(冬草)も以下のように書き残している。
私は北斗の家で、炉端であたっている北斗の父をよくしっている。
おとなしい人だった。
頭の耳の上の部分に大きな傷跡が残っていた。
「これは何の傷ですか」と聞いたら「オヤジにやられたのさ」と笑っていた。
オヤジというのは親爺…即ち熊のことである。
北斗の父は熊取りの名人で、若い時 熊取りに行き、遂に熊との格闘になって、その時 熊にひっかかれたのがこの傷跡だというのです。
しかし、私が知った時は、おとなしい老爺におさまっていた。
北斗自身も、甚作の傷と、その由来について、度々語っている。
私の父は熊と闘かった為(た)めに、全身に傷跡が一ぱいある。
熊とりが家業だったのだ。
(違星北斗「熊と熊取の話」*11)
違星甚作は、「正直」で「おとなしい」男だったが、その一方で、「熊と闘った」「全身に傷跡が一ぱいある」男でもあった。
(違星北斗『私の短歌』)
明言してはいないが、この北斗の短歌の「熊と角力(すもう)を取る様な者」とは父・甚作のことを意識したものだと思われる。
アイヌにとって、「熊」は単なる狩りの獲物ではなく、信仰に関わる特別な存在であった。
北斗は「熊」について、次のように述べている。
万物が凡て神様であります。
一つの木、一つの草、それが皆んな神様であります。
そこには絶対平等――無差別で、階級といったものがありません。
私の父は鰊をとったり、熊をとったりしております。
この熊をとるということは、アイヌ族に非常によろこばれます。
というわけは、熊が大切な宗教であるからであります。
熊は人間にとられ、人間に祭られてこそ真の神様になることが出来るのであります。
従って、熊をとるということが、大変功徳になるのであります。
その人は死んでからも天国で手柄になるのであります。
そういうわけでありますから、アイヌは熊をそんなに恐れません。
(違星北斗「熊の話」*12)
アイヌにとって熊をとることは「功徳」であり、「天国で手柄」となることである。〈熊取り〉は、狩人である一方で、神(カムイ)を歓待し、神の国へ送り返す司祭者でもある。
「馬鹿正直」と「神を祭る司祭者」――。
心無い者たちにその「馬鹿正直」さを嘲笑され利用された男は、一方で、彼のことをよく知る者から勇敢な存在として讃えられ、同族からも、功徳を積んだ、死んでからも天国でその手柄を讃えられる「尊敬」される存在……。
北斗は、父・甚作に「アイヌ」という存在そのものを見ていたのではないか。
北斗は「熊」と「熊取り」にひとかたならぬ興味を抱き、何度もそれらについて語り、短歌や俳句にも読んでいる。
*10 北斗の友人で余市小学校訓導の古田謙二から、湯本喜作への書簡。湯本喜作が著作『アイヌの歌人』(1963年、洋々社)の中で違星北斗を取り上げたが、その内容の誤りについて、当時を知る古田謙二が手紙で指摘したもの。1965年(昭和40年)頃に書かれたと思われる。〈古田謙二書簡「湯本喜作『アイヌの歌人』について」〉という資料の名称は「違星北斗の会」の木呂子敏彦氏が手紙を入手し、清書した際につけた便宜上の表題。
*11 「熊と熊取の話」は『北海道人』1928年(昭和3年)1月号に掲載。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。
*12 「熊の話」(『句誌にひはり』1925年〔大正14年〕7月号所収)は、北斗が同年5月8日に「にひはり句会」で講演したものの講演録。引用にあたっては現代仮名遣いに直し、適宜、漢字とカナへの置き換え、空白や改行の追加、明らかな間違いの修正などを行っている。
●「熊と熊取の話」――鬼熊与兵衛の話
北斗は「熊と熊取の話」の中で、明治以前のアイヌの熊取りの名人〈鬼熊与兵衛〉について語っている。
石狩地方の浜益の漁場で熊の出没が続き、積丹半島・来岸*13出身のアイヌの豪傑・与兵衛が呼ばれ、鰊倉庫を襲う何頭もの熊を次々に退治したという話である。
北斗は「今を去ること七十年も昔のことである」と記述している。「熊と熊取の話」が発表されたのが1927年(昭和2年)であるから、その70年前だとすると、幕末の1862年ごろの出来事ということになる。
ちょうど甚作が生まれた頃であり、万次郎は10歳前後の少年であった頃だ。
余市コタンでは、万次郎の父・イコンリキや、甚作の祖父・イタキサンが脇乙名としてコタンを仕切っていた時代。それほど昔ではない。
ちなみに、この与兵衛の妻も「鬼神」と呼ばれた女傑で「夫婦そろって巨熊を退治した」「今でも上場所で六十才以上の人には たいてい知られている」(「熊と熊取の話」)とも書いている。
だが、北斗の祖父・万次郎や北斗の父・甚作が生まれ育った、熊と人間が隣り合わせに暮らし、鬼熊与兵衛のような熊と徒手空拳で闘うような屈強なアイヌがいた世界は、急速に失われていく。
ならば今は我北海道に熊はいったいどれ位いるであろうか?
永劫この通り変るまいと思わせた千古の密林も、熊笹茂る山野も、はまなしの咲き競う砂丘も、皆んな原始の衣をぬいでしまった。
山は畑地に野は水田に、神秘の渓谷は発電所に化けて、二十世紀の文明は開拓の地図を彩色してしまった。
熊、熊! 野生の熊!!
その熊を見たことのある現代人は果して幾程かあるであろうか?
(「熊と熊取の話」)
北斗が生まれ育った明治後期から大正にかけて、余市は急速に変貌を遂げた。資本主義経済の発達の中で鰊(ニシン)漁の最盛期を迎え、「鰊バブル」とでもいうべき状況にあった。
春になると大量にやってくる鰊のために町全体が沸き立ち、「ヤン衆」や「カミサマ」と呼ばれた出稼ぎ漁夫が押し寄せた。そうした出稼ぎ漁夫やアイヌを使役した和人の網元たちの懐には莫大な金が転がり込み、豪奢な家――鰊御殿が建った。
余市川の川辺にあった大川コタンは、移住してきた和人の家に囲まれ、やがて「町」に飲み込まれていった。鉄道の駅、加工場、商店、劇場、映画館、酒場、遊郭……と、町にはさまざまな新しいものが流れ込んできた。
それは、北斗の祖父・万次郎や父・甚作の生まれ育った頃のコタンとは全く違う世界だった。
だが、「余市アイヌ最後の熊取り」の一人であった甚作は、市街地に飲み込まれ、「近代化」していく余市大川コタンの中にあっても、アイヌの信仰を守り、熊を狩り、息子の梅太郎やコタンの他のアイヌとともに、昭和のある時期までイオマンテ(熊送り)の祭りを続けていたのである。
*13 来岸(らいきし)とは積丹半島の西端にある地名。現・積丹町来岸町付近。
アイヌの豪傑・鬼熊与兵衛が、熊と大立ち回りを見せていた頃に生まれた甚作は、やがて余市コタンの「最後の熊取り」の一人となった。
とはいえ、「父が樺太に長く熊捕り生活をした」(「疑うべきフゴッペの遺跡」*14)と北斗も証言しているように、余市近辺で日常的に熊取りをすることは難しくなり、甚作は樺太など他の地域に出稼ぎに出て熊取りを行っていたようだ。
違星甚作の「熊取り」については、北斗の「熊の話」に詳しい。少し長くなるがところどころ引用していきたい。
私の父、違星甚作は、余市に於ける熊とりの名人です。
何でも十五六年も前のことでした。
こんな時代になると、熊取りなんどという痛快なことも段々出来なくなるので、同じ余市の桜井弥助と相談して、若い人達に熊取りの実際を見せるために、十四、五人で一緒に出掛けて行きました。
(違星北斗「熊の話」)
この「熊の話」は1927年(昭和2年)、東京で行われた北斗の講演を記事化したものである。その15~16年前だとすると1913年(大正2年)あたりの出来事だろうか。子どもだった北斗は熊取りには参加していないだろうが、父・甚作本人や周囲の大人からその話は何度も聞いたことだろうが、まるで見てきたように活き活きと語っている。
シカリベツという山にさしかかりました。
弥助は西の方から、父は青年をつれて南の方からのぼりました。
例によって父は一行にはぐれて歩いておりました。
(同)
雪のシカリベツ山*15を「かんじき」を履いて三日間歩き続けたが、全く熊と出会わない状態が続いていた。
甚作は当時40代。健脚で、他の者がついてこれず、先に行き過ぎて甚作が止まって待つということが度々あったという。
ところが父の猟犬が父の前に来て盛んに吠え立てます。
父はすっかり立腹してしまって、金剛杖(クワ)で犬をたたきつけました。
犬はなきながら遠ざかって行きました。
何度叩いても、その度に戻ってきて、甚作に向かって吠え立てる猟犬。
狂犬になったのではないかと心配しながら また たたきつけますがちょっと後へ下がるばかり、盛んに吠え立てます。
今まですっかり気のつかなかった父の頭に、熊でも来たのではないかしらという考えが、ふいと浮んだので、ふりかえって見ると、馬のような熊がやって来ておりました。
それはもう鉄砲も打てない近い所に、じりじりと足もとをねらっているのです。
とっさに父はクワ(杖)を雪の上へ突き立てました。
熊は驚いて横の方へまわって、尚も足元をうかがっております。
この間、鉄砲に弾を込める暇がありませんでした。(三日間も山を歩いたが熊に出会はなかったので、鉄砲には弾を込めてなかったのです。弾を込めたまま持って歩くということは かなり危険ですから)
父は鉄砲で熊をなぐりました。たたきました。
その勢いで熊は二回雪の上をとんぼりがえりしました。
父は一旦 後じさりして、鉄砲に弾を込めようとしましたが、先刻 熊をたたきつけた際に故障が出来てしまって弾が入りません。
熊は今度は立って来ました。
大きな熊でした。
父は頭から肩先をたたかれました。
(この時父は太刀〔タシロ〕を抜くことをすっかり忘れていたと申しております)
ねじ伏せられて父は抵抗しました。
格闘しました。
後からやって来た十二、三人の連中は、これをどうすることも出来ませんでした。
もし手出しをしようものなら かえって自分達を襲って来はしないかという懸念がありました。
ただ茫然として、遠巻きにこれを見ているよりほか仕方がありませんでした。
弥助のやって来るのを待ちましたが、弥助はなかなかやって来ませんでした。
(同)
大川コタンのもう一人の熊取り名人・桜井弥助は、甚作とは別ルートから登っていた。
甚作と弥助が若者たちに熊取りを教えるための狩りだったので、他の参加者は、実際の熊取りを知らない者ばかりであり、甚作が襲われていても、手の出しようがなかったのだ。
父の防寒用の衣類も この際余り役に立たず、頭、顔、胸をしたたか かみつかれました。
父は熊の犬歯の歯の無い所を手でつかまえて、尚も抵抗を続けておりました。
この時、山中熊太郎という青年が、熊に向って鉄砲を撃つ者はないかと一同にはかりましたが、誰も撃とうとはしませんでした。
熊に向って撃った鉄砲がかえって格闘している人間に当りはしないかという心配がありましたから。
と見ると、父は最早、雪の中へ頭をつっ込んで、防寒用の犬の皮によってのみ、熊の牙から のがれて居りました。
一同は思い切って後の方から一斉に鯨波(とき)の声を挙げて進んで行きました。
熊はびっくりして後ろをふりかえりました。
そして人間の上を飛び越えて逃げて行ってしまいました。
実際、弥助のやって来るのは遅くありました。
皆んなの介抱で山を下りました。
それから大分長い間医者にかかっておりました。
(同)
北斗や古田が言及している甚作の顔の傷が、この時の傷である。耳から顎にかけて、ひきつれを伴い、かなり目立つ形で残っていたようだ。
ところで、それ程の大傷が存外早く癒(なお)ったことを特に申し上げなければなりません。
それはアイヌの信仰から来ているのでありまして、つまり熊は神様だ、決して人間に害を加えるものではない――という信仰が傷の全治を早からしめるのであります。
其の後、父は熊狩りに懲りたかと申しますのに決してそうではありません。大正七年の「ナヨシ村」*16の熊征伐を初めとして、その他にも しばしば出掛けて行きました。(同)
北斗が言うように、甚作はその後も熊取りを続ける。だが、甚作は余市付近では熊取を行わなくなったという。その理由を甚作自身が語った記録がある。
余市付近の山で熊によって怪我をしてから、絶対に余市付近では熊狩りをしなくなり、却って樺太へ行くと熊狩りをした(中略)余市付近の熊の家族に対して、何か自分の仕草が気に入らない所があったに違いないから、余市付近で熊狩をすると祟りが恐ろしい。
然(しか)し樺太では熊の家系が異なっていると思うから、それ相応の神祈をして狩に出れば大丈夫と思う
(名取武光・犬飼哲夫「イオマンテ(アイヌの熊祭)の文化的意義とその形式」*17)
北斗は甚作の傷が早く治ったのは、アイヌの熊への信仰によるものだという。そして甚作もまた、自分が襲われたのは、余市の熊(カムイ)の一族にとって、自分の態度に気に入らないところがあったからだろう、だから、樺太の熊を取ることにした、というのだ。
甚作、そして北斗にも、熊への特別な信仰が息づいていたことがわかる。
彼らだけでなく、市街地に飲み込まれた「大川コタン」の中にあって、違星家や他の余市アイヌの人々は長くアイヌの信仰を守っていた。
大正時代、余市大川町の多くのアイヌは、昔ながらのアイヌ式の家屋ではなく、和人の労働者とおなじような木造の住宅に住んでいた。
しかしながら、北斗の家もそうだったが、自宅にはアイヌの神々「カムイ」の信仰のための祭壇「ヌササン」があり、そこにさまざまな宝物を飾っていた。
違星家の祭壇については、北斗が1924年(大正13年)8月に余市を訪ねてきた西川光次郎にその宝物を見せている。*18
弓もある、槍もある、タシロ(刄)もある。又鉄砲もある。
まだある、熊の頭骨がヌサ(神様を祭る幣帛を立てる場所)にイナホ(木幣)と共に朽ちている。
それはもはや昔しをかたる記念なんだ。熊がいなくなったから……。
「人跡未到の地なし」と迄に開拓されたので安住地と食物とに窮した熊は二三の深山幽邃の地を名残に残したきり殆んど獲り尽くされたのである。
(違星北斗「熊と熊取の話」*19)
北斗は、急激に失われてゆく「熊取り」と「熊祭り」の文化を嘆いたが、それでも、しばらくはなくならなかった。北斗の死後も、「熊祭り」は父・違星甚作や兄・梅太郎、他のアイヌたちの手によって、細々とだが続けられていった。
*14 余市フゴッペで見つかった文字のようなものが刻まれた壁画について、北斗が考察した論文。1927年(昭和2年)12月より翌年1月まで6回にわたり小樽新聞に連載された。
*15 余市郡仁木町然別。余市大川町からは余市川を遡った場所にある。
*16 樺太の「名好村」。現ロシア連邦サハリン州レソゴルスク。日本海側に位置する余市のアイヌは古くから樺太アイヌとのつながりが深かった。「父が樺太に長く熊捕り生活をしたので」(「疑うべきフゴッペの遺跡」)とあるので、甚作の樺太での熊猟は少ない回数ではなかったようだ。また、余市アイヌと樺太アイヌの婚姻も少なくなかったようだ。
*17 名取武光・犬飼哲夫「イオマンテ(アイヌの熊祭)の文化的意義とその形式」
*18 『自動道話』1924年(大正13年)10月号「樺太、北海道巡講記」西川光次郎に8月13日「朝、アイヌ青年違星氏宅を訪問し、種々の宝物を見せて貰ふ」とある。
*19 雑誌『北海道人』(1928年〔昭和3年〕1月号)掲載。
●最後のイオマンテ
北斗が東京から北海道に戻ってきた1926年(大正15年)ごろの余市の大川コタンには、「熊の檻」、そして「熊の碑」というものがあった。
詳しいことはわからないが、「大正15年」の余市大川町の復元地図*20に「熊の碑」と記載されている。
また「熊の檻」については、
中央の小さな広場に丸太で作った檻の中で、熊の子が飼育されていた。二才になると兇暴性が出るので、神に感謝を捧げる熊祭りが行われた
(目黒幸男『草莽』*21)
とある。
大川コタンでは、「熊祭り」(イオマンテ、熊送り*22)は、1914年(大正3年)ごろまでは隔年で行われていた*23らしい。「隔年」というのは、子熊を育て、二年目にイオマンテで神の国に送ったからであろうと推測できる。
その後、だんだんと行われなくなったようだが、「余市アイヌ最後のイオマンテ」というべきものが、1937年(昭和12年)2月25日に行われている。それは数百人の観衆が集まり、新聞社の取材も入った大々的なものであった。
祭司は75歳の違星甚作と、もうひとり61歳の「古老」が務め、午後2時より「熊祭りが大川町の登川河畔において厳かに執行された」(『小樽新聞』1937年〔昭和12年〕2月25日*24)とある。
十数名の婦人の哀調を帯びた熊送りの唄と踊りが手拍子足拍子によって儀式を一層 劇化させる。
耳輪を飾られた熊は祭壇前に据えられ
更に祭事の後 場の中央に設けられたシコロの神木に結ひられ
(中略)一族の若人順次 射込み 鮮血点々として 白雪を染め
痛手にほうこうする悲鳴と共に凄惨な気を場にみなぎらせ
若き旧土人が機を計って猛り狂う熊に飛びかかって押し込み
シコロの木をもって咽喉を扼し
かくして傷ついた若熊は昇天、
これを一族が音頭とともに、祭壇に送り祭事を営み
クルミを撒いて珍しい祭りを同三時半終えた(中略)
この熊祭りは余市町として最近になく
かつは古老によって営まれる熊祭りはこれが最後であろうといわれ
仲々の人出であった。
なほこの日 余市郷土研究会では永く本熊祭りを記録に止めるべく山岸、山本正副会長以下会員多数場に赴き
違星梅太郎氏の解説を聞きつつ最後までこれを見学して得るところが頗る多かった(同)
違星北斗の死後8年を経て、違星家の父・甚作と兄・梅太郎が中心となって、このような大きなイオマンテを行うことになったのには、やはり死せる北斗の影響が大きかったであろうと考える。
文中の余市郷土研究会の山岸(礼三)会長は、北斗の主治医であるが、北斗との交流によって郷土研究に興味を持った人物であった。また兄・梅太郎も当初は、北斗がアイヌ文化の研究を行うことを快く思っていなかったのだが、北斗の活動が多くの人々の心を動かしていくのを見て思いを新たにし、北斗の晩年は良き理解者となったのであった。
余市においては、古老による盛大なイオマンテは記録に残っているものはこの1937年(昭和12年)のものが最後であり、その後は、戦後にイオマンテを行ったことがあったが、その際は準備がなかなか整わず、本格的なものとはならなかったようである。*25
また、余市で昭和30年代ごろまで、ひっそりとアイヌ式の祭事を行っていた人物がいたとも言われている。*26
*20 「大正15年当時大川町市街地復原地図(1994年〔平成6年〕7月作図完成)」 余市の鰊漁の全盛期であった大正時代の余市大川町の街並みを、有志が当時を知る有志が、多くの人々への聞き取りを行って復元した市街地の地図。
*21 目黒幸男『草莽』「70年前の大川の街通りによせて」(1998年〔平成10年〕)
*22 「カムイ」である熊などの動物を、神の国に送り返す祭礼。歌やごちそうで歓待する。宴にはいい思いをしてもらって神の国に帰ってもらうことで、仲間のカムイたちにも再び現世に毛皮や肉などの恵みを持って来てもらう、という意味がある。
*23 『小樽新聞』1914年(大正3年)6月9日「巨人の跡」
*24 『小樽新聞』1937年(昭和12年)2月25日「熊送り唄も哀しく白雪に血の花~昔めく余市の熊祭」。引用にあたっては適宜、改行を追加している。
*25 「戦後クマ祭りをやったとき衣装がなかったので日高から借り、にわか仕立てで踊ったが、ヨイチでアツシを持っていたのは旧家のフチだけで、それも樺太西海岸のものだという1枚だけだった」佐藤利雄「大川・入舟遺跡の歴史的概要について」『余市水産博物館研究報告』3、2000年〔平成12年〕
*26 余市の郷土史家・青木延広氏の証言による。違星家ではない。
●甚作から「北斗」に受け継がれたもの
違星北斗は、祖父・万次郎の語る文明の地、《モシノシキ》東京への憧れを抱きつつも、同時に「熊取り」の名人であった父・甚作の「強き者としてのアイヌ」の姿にも憧れていた。
勇敢で信仰に篤く、正直で人情に厚い――そんな父の「アイヌらしいアイヌ」という言葉から連想されるようなアイヌの面影を愛し、「アイヌであること」への誇りを確かに受け取っていた。
同時に、その「正直」さを踏みにじる人々を憎んでもいた。
(「北斗帖」)
強きもの! それはアイヌの名であった昔に耻(はじ)よ醒(さ)めよ同族(ウタリー)
という北斗の「勇敢なアイヌ」「強きアイヌ」のイメージの中には、巨熊と素手で闘うほど勇敢な、「アイヌらしいアイヌ」であった父・甚作の影響が大きいのではないだろうか。
北斗の作品の中には、先に紹介した「熊の話」「熊と熊取の話」の他にも、短歌や俳句の中で、熊のことを詠ったものがある。
それだけではなく、彼自身の号である「北斗」も「熊」と関連付けてつけられたのではないか思われるのだ。
「北斗」という号は、北の大地北海道で一人斗(たたか)う――という意味にも取れ、また、北斗七星のように、人々に進むべき方角を教える存在になろう――という決意のあらわれともとれる。
さらに北斗は、そこに北斗七星を形作る「大熊座」の意味も含めているように思えるのだ。
ジョン・バチラーによると、
北極星は「Chinu-Kara-Guru(チヌ・カラ・グル)」と呼ばれ、「先覚者」、「保護者」を意味しています。しかし、その名前は、大熊座の意味にも使われるのです。熊祭りのときに、儀式の中で殺された後、直ちに子熊に与えられるのが「Chinukara Kamui(チヌカラ・カムイ)」(神なる守護者)という名前であることは、とても興味深いことであります。
その子熊は、止めを刺された後に、その魂は、熊の祖先が住んでいる北極星に行くのだ、とされているのであります。このことは、熊祭りに参加している首長たちや、古老たちが、別れの挨拶に北極星の方向に向って空中に矢を放つ理由なのです。*27
という。
しかしこれだけでは、ただの偶然のようにも思えるかもしれない。
実際、北斗自身が、「北斗七星」と「熊」を関連付けるような文言は残していなかったので、わたしも確信が持てないでいた。
ところが最近見つかった「違星北斗大正14年ノート」に、次のような詩があった。
小曲(冷たき北斗)
1
アイヌモシリの 遠おい遠い
むかしこひしの 恋ひしややら
2
光るは涙か? それとも声か?
澄むほど淋し 大熊小熊
3
みんなゆめさと わすれてゐても
雲るも涙 照さえかなし
4
北のはてなる チヌカラカムイ
冷めたいみそらに まばたいてゐる
最初に「北斗」と命名した時点でそうだったかはわからないが、この詩が書かれた時点では、北斗自身が「北斗」の号の中に、アイヌの宗教観・世界観の根幹をなす「熊」のイメージを込めようとしていたことは間違いないだろう。
そしてそれは、巨大な熊を狩り、カムイとして祀る「アイヌらしいアイヌ」であった父・甚作が体現していた「アイヌの姿」を、その名の中に封じ込めようとすることに他ならなかったのだ。
次回は、違星甚作のもう一つの家業「鰊漁」と、それによる余市コタンの変貌について、考えてみたい。
※北斗の死後に行われた余市でのイオマンテについては、「記録に見る余市アイヌの民俗誌」(乾芳宏、2003年『余市水産博物館研究報告』第6号)に学ぶところが多かった。
*27 ジョン・バチラー『ジョン・バチラー遺稿 わが人生の軌跡』「第5章 アイヌの説話と生活 星の伝説」。
*28 「違星北斗大正14年ノート」北海道立文学館蔵。違星北斗が1925年(大正14年)に使用していた雑記ノートで、短歌や俳句などの作品の草案、講義録、住所録、家計簿などの内容が含まれている。
(つづく)