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今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯(第3回)

 第1章 《イヨチコタン》違星北斗の幼年期(承前)

 

3 祖父・万次郎の東京〈モシノシキ〉

 

●万次郎が生まれた時代の余市 

 違星北斗の祖父・万次郎は、1852年(嘉永5年)、父「イコンリキ」(伊古武礼喜)と母「かふに」の三男として、余市の「川村コタン」に生まれた。

 川村コタンは、余市川の河口東岸、登川が流れ込む合流地点にあり、「川向」村とも呼ばれた。後の北斗の時代には地名から「大川コタン」と呼ばれた。

 当時、余市には、余市川の両岸に「上ヨイチ場所」(上場所)、「下ヨイチ場所」(下場所)の二つの「場所」があった。*1いずれも「場所請負人」の林家(屋号「竹屋」)が差配していた。

「場所」とは元々は松前藩がその財政基盤であるアイヌとの「交易」を行う場所であったが、後にその経営を藩から請け負った商人が行うようになった。場所請負人は交易の拠点として「運上屋」を設け、アイヌとの交易を行ったが、やがてアイヌを使役して、直接大規模な漁場経営を行うようになり、経済だけでなく、地方行政をも担うようになっていった。

 万次郎の生まれ育った川村コタンは「上ヨイチ場所」に属し、役アイヌ*2が多かった。

「下ヨイチ場所」は余市川の西岸のモイレ山の北辺にあり、現在、「旧下ヨイチ運上屋」(重要文化財国史跡)として復元保存されている。

 違星北斗自身も余市を「アイヌの村落中で一番能く日本化した所です*3と言っているように、早くから和人が多く移り住み「アイヌとの交易を行う場所であった」が、徐々にニシン漁という巨大産業を中心とした、利潤追求型の社会構造を持つ地域となっていった。余市アイヌは早い段階で和人のつくったこの利潤追求型社会に労働力として組み込まれ、和人に使役される生活を強いられることになっていったのである。

 余市の場所請負人・林家の残した『林家文書』には、余市アイヌの世帯数と人口が残されている。*4

 

〈上ヨイチ場所〉

川村(家数17軒、人口112人)  ※(川向)現・大川町

〈下ヨイチ場所〉

モイレ(10軒、54人)                ※現・入舟町

ハルトロ(3軒、17人)               ※ハルトリ、現・浜中町

ヌウチ(12軒、73人)                ※ヌッチ、現・ヌッチ川河口、

山牛(5軒、29人)                        ※ヤマウシ、現・沢町

テタリヒラ(11軒、66人)            ※デタリヒラ、現・白岩町

シュマ泊(7軒、39人)              ※シュマトマリ、現・潮見町島泊

湯内(5軒、11人)                      ※ユウナイ、現・豊浜町

 

 安政6年当時、余市場所内には万次郎の生まれた川村コタンをふくめて上記のような八つのコタンがあった。

 余市アイヌの総戸数は84戸、総人口は469人(男249人、女220人)となっており、中でも川村コタンは当時、日本海側では最大のコタンであった。

 また、同書には余市アイヌの農業についての記述もある。

 余市アイヌは漁場に従事する一方で、ヨイチ場所請負人・林家の監督の下、早くから農業も手がけ、多くのアイヌが田畑を開発していた。たとえば1856年(安政3年)、万次郎の父(北斗の曽祖父)イコンリキは一反の畑で粟・大根などを耕作していたと記録されている。一反は300坪(=600畳)である。余市アイヌ全体の農耕地は3町6反7畝9歩で海岸線全域にわたっていた。*5

 幼少年期の万次郎も漁撈だけでなく、畑を手伝っていたことだろう。

 

 

*1 古い資料では上ヨイチと下ヨイチの場所が東西逆に書かれており、ある時期に呼び名が変わった可能性がある。

*2 コタンで「役」をつけられたアイヌのこと。「役土人」ともいう。「役」には「惣乙名(そうおとな)」「脇乙名(わきおとな)」「小使(こづかい)」「土産取(みやげとり)」等があるが、もともとアイヌ社会で用いられていた役割ではなく、あくまで「場所」の和人に与えられた役割であった。役アイヌは和人から優遇されるかわりに、和人のアイヌ支配の協力者としてほかのアイヌを統治しなければならなかった。

*3 伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」(『伊波普猷全集第11巻』)より。

*4 『林家文書』は場所請負人・林家に残された記録で、交易・漁場を行った運上屋の記録。余市アイヌに関する記載も多い。イコンリキの名は「脇乙名」という指導者的役職のため、『林家文書』には度々登場する。

*5 『林家文書』「安政六年 土人人別書」(『余市農業発達史』)。余市アイヌの戸数と各家の人数・名前・続柄・年齢などを記録したもの。各コタンの世帯数、人口の小計と、総人口・総世帯数の合計数は一致してしない。

 

●万次郎の家族

 幕末の1859年(安政6年)の資料*6によると、万次郎は「脇乙名」の役を持つイコンリキ(伊古武礼喜、45歳)と母かふに(31歳)の三男「ヤリヘ改 万次郎」(8歳)と記録されている。

 8歳というのは「数え年」であり、満年齢でいうと7歳である。

 続柄は「三男」とあるが、万次郎を「次男」とする文書もある。三男として生まれたが、兄が死亡または他家へ養子に行ったなどの理由で、明治初期の戸籍作成時に事実上「次男」であったのかもしれない。

「ヤリへ」というのは「おしめ」「オムツ」といった意味の幼名である。乳児の仮の名としてよく使われていたようで、資料には同じ「ヤリへ」の幼名を持つ人がほかにも数人見られる。

 アイヌは魔除けとして汚い意味の幼名をあえて子どもにつけた。そして後に正式なアイヌの名前(アイヌ名)をつけるのである。しかしながら万次郎が成長後に、和人の名(和名)である「万次郎」以外のアイヌ名を持っていたかは不明である。

 万次郎の兄弟として、長兄「フヤリカタ改 勘八」(12歳)、次兄「クサヱ改 仙蔵」(10歳)、妹「ほんかふに改 かふ」(6歳)、弟「半七」(3歳)の名があり、ほかに同居人としてイコンリキの弟「アツテツ改 厚蔵」、親類の子であろう「ヨコ改 横蔵」(26歳)があり、いずれも和名(日本風の名前)を持っている。

 アイヌ名から和名への改名は万次郎の家族だけでないようで、1859年の資料に記された余市の八つのコタンでは20歳代より若いアイヌはほぼ全員和名で記されている。一方、30歳代以上はほとんどがアイヌ名で記されおり、余市においてはある時期にアイヌに対して和名を強制するような動きがあったのだろうと思われる。

 ただし北斗の父で万次郎の養子・甚作(セネツクル)はアイヌ名と和名の両方を持っていた。アイヌ名と和名の両方を持つ時期がしばらく続いたものと思われる。

 

*6 『林家文書』 「安政六年 ヨイチ御場所蝦夷人名前書 控」(『余市町史 第一巻 資料編一』)。

 

●激動の時代と重なる少年期

  万次郎が余市の川村コタンでどのような少年時代を過ごしたかは記録が残っていないのでわからない。

 ただ、彼の少年期はそのまま、幕末から明治維新の激動の時代に重なる。それはアイヌモシリ(蝦夷地/北海道)に暮らすアイヌ民族にとってもまた激動の時代であったはずである。

 1853年(嘉永6年)の「黒船来航」の1年前に生まれた万次郎は、箱館戦争が終わり明治維新のあった年、満16歳だった。

 1869年(明治2年)、明治新政府は、それまでアイヌが「アイヌモシリ」と呼び、和人が「蝦夷地」と呼んでいた土地を「北海道」と命名し、一方的に日本の領土に編入した。そして北海道を「開拓」するための役所として「開拓使」を置いた。

 アイヌは「旧土人」とされ、彼らの意志とは無関係に「日本人」に編入された。

万次郎、満17歳の時である。

 さらに1871年明治4年)にはアイヌに対し、葬儀に際して家を燃やす〈家送り〉や入墨、男子の耳環の着用などを禁止した。そして日本語と日本文字の学習などを「告諭」という形で命じた。

 開拓使の開拓次官に就任した黒田清隆は、北海道開拓のための人材育成を目的にした学校の設立を構想し、1872年(明治5年)、東京・芝の増上寺に「開拓使仮学校」を開設した。また、同じ敷地内に、政府の開拓事業に協力するアイヌを育成するための附属教育所を併設した。「開拓使附属北海道土人教育所」である。

 満20歳の万次郎は「留学生」として余市から東京に連れて行かれ、この教育所に入学することになるのだが、それによって万次郎の人生は大きく動きだすことになる。

 

●万次郎の「東京留学」

 私の祖父万次郎は四年前に死亡したが、今より五十五六年前にモシノシキへ行ったのである。今こそ東京と云ふが、アイヌはモシノシキと云ってゐた(モシリは国、ノシキは真ン中)。まだ其の頃の事であるから教育も行き渡ってゐない。アイヌの最初の留学生十八名の一人であった。今だったら文化教育とか何々講習生といふものでせう。芝の増上寺清光院とかに居た。

 祖父は開拓使の雇員でもあったらしい。ほろよひ機嫌の自慢に「俺は役人であった」と孫共を集めて、モシノシキの思出にふけって語ったものだった。

その頃に至ってからやっとシャモ並に苗字も必要になって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢になったのである。

違星北斗『我が家名』より)

 

 晩年の万次郎は〈モシノシキ〉と呼ぶ東京への「留学」の思い出を竹次郎(北斗)ら幼い孫たちに語った。「自分は役人であった」と自慢げであったという。

 だが、万次郎にとっては「良い思い出」となったこの「東京留学」が、ほかのアイヌにとってもそうだったかどうかはわからない。万次郎自身にも、おそらく孫には語っていない(語れない)ことがあったのではないか。

 この「アイヌ子弟の東京留学」については、近年明らかになったことが多い。「留学」とはいいながらその実態は「強制連行」「強制就学」であったといわれている。だが、この稿ではあえて違星北斗が使用した「留学」をカギ括弧つきで使うことにする。

 実際の「東京留学」はどのようなものであったのか。

 そして、なぜ、万次郎にとっては「良い思い出」と語るに足るものとなったのか。ほかの参加者はどういう経験をし、どういう感想を持ったのか。

 万次郎の東京の「良い思い出」は結果として、北斗の東京への「憧れ」を募らせることとなり、その50年後、ついには北斗自身も上京を果たすことになる。

 もし、万次郎の「東京留学」がなかったとすれば、違星北斗の東京行きもなかったかもしれず、そうすれば、後のアイヌ民族の歴史もまた違ったものになったかもしれない。

「東京留学」について先行研究*7を参考にしながら、20歳の万次郎の目を通して、この「東京留学」(もしくは「強制連行」)をたどってみよう。

 

*7・『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(編集・東京アイヌ史研究会/出版・現代企画室、2008年)所収の狩野雄一・広瀬健一郎「第二部 開拓使による東京でのアイヌ教育」。同書は「東京留学」/「強制就学」についての精緻な調査・研究を行っており、その詳細を伺い知ることができる貴重な書である。

広瀬健一郎「開拓使仮学校附属北海道土人教育所と開拓使官園へのアイヌの強制就学に関する研究」(『北海道大学教育学部紀要』1996年12月)

 

余市コタンから〈モシノシキ〉東京へ

 1872年(明治5年)、開拓次官・黒田清隆は東京・芝増上寺に「開拓使仮学校」を設立すると同時に、アイヌ子弟を教育するための教育施設として「北海道土人教育所」を併設した。

 当初は100名のアイヌを上京させ学ばせる計画だったが、結果的には1872年(明治5年)から1874年(明治7年)までの3年間しか行われなかった。参加人数も35名(最終的には38名)に留まっている。

「留学生」に選ばれたアイヌは、石狩、札幌、夕張、小樽、高島、そして万次郎ら余市の出身者で、北海道全体から見れば、地域的に非常に限定されている。日本海側の古くから和人との交流が多く、松前藩開拓使の影響力が大きい地域であった。

 そして、「留学生」となったのは、それらのコタンの中でも日常的に和人との接触が多く、和人の言葉や文化、風習などについての知識がある若者、家柄的には、「乙名」や「小使」「土産取」といった、和人に協力して村をまとめる「役」を持った指導的な立場のアイヌの子弟が多かった。

 開拓使としては、将来コタンで影響力を持つであろう指導者層の若者を「教化」し、アイヌ統治のための手先としたいという目論見があったのだろう。

 また、現実問題として、各地コタンの役アイヌにとってその立場上、「若者を差し出せ」という命令を断れなかったのかもしれない。

万次郎も、余市の脇乙名・イコンリキの息子だった。

 石狩から4名。札幌からは9名。夕張2名、小樽9名、高島3名。そして万次郎の余市からは8名、計35名(後に余市1人、択捉2名が加わり38名)のアイヌの男女が東京に連れて行かれることになるが、いずれも10代後半から30代の働き盛りであった。各家庭にとっては主要な労働力をとられることになるため、多くのアイヌが子弟の東京行きを拒んだ。*8

 当初の目標人数100名の「留学生」を達成できなかったことから、明治初期の開拓使には、これらの地域以外で人材を「供出」させるだけの影響力がなかったのであろうことも伺える。

 1872年7月26日(明治5年6月21日)。*9

 万次郎ほか、余市郡の各アイヌコタンから8名の若者が札幌に集められた。

 川村(現・大川町)コタンから6名。

(違星)万次郎、(市村)猪之助、(小丹波)半蔵。(坂東)きち、(山田)龍助、(山村)百太郎。

 そして、下ヨイチ場所があったモイレから(関)こたま、ヤマウシから(中村)猶吉。*10

 全員が19歳か20歳で、男が6名、女が2名。先述の通り、コタンで指導的な立場にあった役アイヌの子や孫が多かった。

 万次郎にとっては、世代も近い見知った者たちであっただろう。8人は、開拓使の手配によって東京に向かうことになる。

 出発前、彼らには着替えを入れるための行李と、和服、下着、茣蓙、手拭いが開拓使から配布され、きちとこたまの2人の女子には鏡も与えられた。

 札幌に集合した万次郎たちは、おそらく開拓使の担当者とともに札幌から陸路で函館に向かった。

 もちろん自動車も鉄道もない時代。札幌―函館間に敷設予定の馬車道路さえ翌年6年の完成を待たねばならない。

 万次郎たち8人は徒歩で300キロ近く距離のある札幌-函館間を踏破したと思われる。 *11

 

*8 余市出身のアイヌが東京に向かうにあたって開拓使は、男子には1人あたり5円、女子には7円の手当を与えた。しかしそれは和人労働者の1カ月分の賃金より安く、働き手を失った家族にとっては長期にわたっての労働力低下をまかなえるような額ではなかった。

*9 1872年12月31日(明治5年12月2日)を最後に、日本は太陰暦から太陽暦に切り替わり、翌日1873年1月1日が明治6年1月1日となった。1872年までの日付は西暦のものである。

*10  「留学生」の若者たちの姓(( )の中)は出発時にはまだなく、後につけたものである。北斗の「その頃に至ってからやっとシャモ並に苗字も必要になって来た。明治六年十月に苗字を許されたアイヌが万次郎外十二名あった。これがアイヌの苗字の嚆矢になったのである」(『我が家名』)とあるように、万次郎たちは東京滞在中に姓を名乗ったと思われる。

(実際に、万次郎の述懐を裏付けるように明治6年11月4日付「郵便報知新聞」に、小樽、高島、余市の生徒が和名を名乗りたいと申し出た、とあり、戸籍上の登録とは別に、名乗りだしたのはこの時期ではなかったかと思われる。ただし、札幌、石狩、夕張の出身者については、明治5年の出発時に早急に姓を付けられていたようで、そのため、故郷の親と別の姓をつけてしまった者もいた。『《東京・イチャルパ》への道』)。

*11 札幌-函館間の移動に関しては、陸路であったという他には、詳しいことはわからない。

 

●蒸気船に乗り横浜へ

 函館についた万次郎たち8人の余市アイヌの「留学生」たちは、蒸気船に乗って横浜に向かうことになる。

 それがなんという名の船だったのかは不明だが、「おそらくこういう船だったのだろう」と推測することはできる。

 実は万次郎ら余市の8名は第2班で、すでにほかの札幌・小樽・高島・石狩・夕張出身のアイヌの男女27名は先発隊としてすでに函館を出港していて、万次郎たちの出発より1カ月も前に東京に着いていたのだ。

 彼ら先発隊27名は、6月16日に函館からアメリカの郵船エリエール号(太平洋郵船会社所属)*12に乗船、10日後の26日に横浜に到着している。

 万次郎たちが乗った蒸気船が同じ郵船会社のものかどうかは不明だが、先行組と日程的には差異がないので、エリエール号と同等の経路・速力を持つ汽船であると推測される。

 蒸気船に初めて乗った万次郎が、どのような感想を持ったかは想像するしかない。

 万次郎は海のアイヌ――ヨイチウンクルである。ヨイチウンクルは古くから小舟を駆ってオホーツク海を渡り、その交易圏は樺太沿海州にまで及んでいた。

「板子一枚下は地獄」――万次郎はそんな北海の漁師でもある。

 また、鰊漁に湧く余市は、北前船のルートでもある。

「船」というものに人一倍の関心があったであろうと私は推測する。

 余市の海で漁をする中で、沖合に巨大な蒸気船を見ることもあったかもしれない。煙を吐く巨大な鉄の船に乗り込み、城のような船内で10日あまりも生活したことは、万次郎の心に文明への驚異を与えたのではないかと思う。

 

*12 太平洋郵船会社所属(SS Ariel 1738トン)。1855年建造。横浜―函館間を定期運行したが、代替船の場合や、増便の場合は別の船が就航することもあった。(函館市函館市地域史料アーカイブ 函館市史 通説編2 第2巻より)

 

●仮開通したばかりの鉄道で横浜から東京へ

 万次郎ら余市アイヌの若者は、8月7日、横浜港に到着する。10日あまりの船旅を終え、横浜で2泊してから8月9日の朝、東京へ向かった。この時乗ったのが、彼らが来る2ヶ月前にの明治5年6月12日に品川―横浜間が仮開通したばかりの鉄道であった。*13

 万次郎たちにとってもくもくと煙を吐きながら高速で走る蒸気機関車は、蒸気船以上に珍しかったことだろう。

 ましてや、東京人の多くも、まだ汽車に乗ったことのなかった時期である。

 残念ながら、万次郎たち余市組8名が横浜や東京に来た際の記録はない。

 人数的にも少なく、彼らは支給された和服を来ていたであろうし、それほど目立たなかったのかもしれない。

 だが、先行組については、そうではなかったようだ。先発隊の札幌・石狩・小樽・夕張・高島の27名のアイヌの「東京留学生」たちの一団は、その道中で、群衆に取り囲まれ、好奇の目にさらされることとなった。当時の新聞にこう書かれている。

 

開拓使にては蝦夷の人民を開化せんがため蝦夷の(サッポロ)其他の土人(アイノ)なるもの男女二十七人を米国郵船(アーリエル)に乗組せ一昨二十一日横浜へ到着せり昨日鉄道の汽車へ乗せて東京へ送れり。この土人は人種異にして其行装も奇怪なれば見物人群衆せり素より玩弄至愚の野蛮人なれば日本内部の都府を目撃させ文明の景況を観せ且つ諸々の職業を教導して開化を要せんがためなりと」

(6月28日「日新真事誌」『日本初期新聞全集』第38巻227ページ)*14

 

 先行組は、「其行装も奇怪なれば見物人群衆せり」と書くくらいなので、目立つアイヌの装束を着ていたのかもしれない。しかし、彼らも余市組と同様、和服を支給されているとすれば、むしろこれは引率の和人が「目立たせる」ためにアイヌの衣装を着るよう指示していた可能性もある。

 なにせ、「日本内部の都府を目撃させ文明の景況を観せ且つ諸々の職業を教導して開化を要せん」という、これから始まる開拓使の「アイヌに教育を与える」というプロジェクトをアピールしなければならないのだ。そのためには彼らが、日頃から和人と接して日本語とアイヌ語を操るバイリンガルであることも、和人に協力してコタンをまとめる指導的な立場のアイヌであることも無視して「素より玩弄至愚の野蛮人」でなければならなかったのだろう。

 一方で彼らの中の1人は、新聞記者の取材に対して次のように語っている。

 

「東京に来て、その〈開化〉に驚いたかと聞かれたが、特別驚きはしなかった。以前北海道にお役人が来た時に、アイヌが取り囲んで見物したところ、殴られたり叱られたものだが、今日東京に来てみたら、東京の人々も変わりはしない。だから、東京の人がアイヌより開化しているとは思えない」*15

 

 今となっては誰が発した言葉かはわからないが、なんとも痛快なコメントではないだろうか。

 

*13 正式開通は1872年10月。品川-横浜(現在の桜木町駅)間24キロを35分で走った。

*14 『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会)からの引用。

*15 1872年(明治5年)7月付『新聞雑誌』第52号(『日本初期新聞全集』第40巻180ページ)を要約、『“東京・イチャルパ”への道――明治初期における開拓使アイヌ教育をめぐって』(東京アイヌ史研究会)より。

 

●寄宿舎へ到着

 余市組より一足先に汽車で東京に着いた札幌・石狩・小樽・夕張・高島の先行組の27人は、まずは渋谷にあった開拓使の農業実習施設「第三官園」に徒歩で向かい、そこで荷を下ろした。

 当初は、ここで全員が「農業研修」を受ける予定だった。

 しかし、年少者と壮年者に分けられ、年少者は芝増上寺の「開拓使仮学校附属土人教育所」で学習を、壮年者は「第三官園」で農業実習を行う、という方針に変更になった。

 さらに、学習班と農業実習班の入れ替えがたびたび行われ、その都度生徒の移動が行われた。

 先行班がそのようなことになっているとは知らず、万次郎たち余市組8名は8月9日に横浜から東京に到着。先に到着してた27名に合流して35名となった。

 8月13日には余市組を歓迎する宴があり、酒肴が振る舞われた。

 その日、万次郎はほかの地域のアイヌの若者たちと出会い、大いに語ったことだろう。

 だが、その後アイヌの若者たちは、開拓使のずさんな計画と度重なる方針転換に翻弄されることになる。

 そして、多くの「留学生」が慣れない東京での、常時監視される寄宿舎生活、食生活の違いなどによって体調を崩していく。

 幾人もの脱走者や退学者が出て、最終的には4名のアイヌ留学生と1人の赤子がこの「留学」のために命を落とすこととなったのである。

 そして、万次郎もまた、その体が病に蝕まれてゆき、一時は危篤状態にまで陥ってしまうのである。

 次回、万次郎たちの「留学生活」を追ってみたい。

(つづく)