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「今ぞアイヌのこの声を聞け――違星北斗の生涯」(第6回)

 

第1章 《イヨチコタン》 違星北斗の幼年期

 

4 父・甚作――「アイヌらしいアイヌ」(つづき)

 

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違星北斗余市アイヌの系譜

 

●「地引網」と「鰊」

 違星甚作の本業は漁師だった。

 大所帯であった違星家*1を支えるために働きづめで、のちには子の梅太郎や北斗もそれに加わった。

 

「私は地引網と鰊とを米櫃としていた父の手伝いをして、母がいつも教訓していた、正直なアイヌとして一生をおくる決心をしました。いい漁場は大方和人のものになっていたので、生活の安定はとても得られませんでした」。*2

違星北斗の言葉、伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」より)

 

「生活の安定はとても得られ」なかったと北斗が言うように、アイヌは、漁場でも差別的な待遇を強いられた。

 江戸時代、松前藩から余市の漁場経営を請け負っていた商人・林家*3は、明治になってもそのまま大網元として、余市の漁場を牛耳り続けた。

 江戸時代、利益を追求することしか考えない、商人の「支配人」が差配する漁場で、アイヌの人々は、文字通り「支配」されていたのだが、明治になっても、引き続き和人が差配する漁場で働かなければならず、アイヌであるという理由だけで待遇に差があったり、酷使されたりした。

 待遇面だけでなく、「アイヌである」ということを理由に、地元の和人や、出稼ぎ漁夫などに侮蔑されたりすることも多かった。

 

 だんだん魚は少なくなって昔の様な大漁は出来なくなったばかりではなく 漁業法はやかましくなりまして、鱒(ます)は禁漁となり鮎(あゆ)は種子川の名に禁漁となり 鰛(いわし)も鯖(さば)もすべて 許可なければ漁具は取り上げられ 外(ほか)に罪人として罰金を納めなければならない。

違星北斗「ウタリ・クスの先覚者中里徳太郎を偲びて」)

 

 父はまた猟師なのでありましたが、それも官札なければ猟に行けない。

 そこで私は考えました。税金税金で何んでも税金でなければ夜も明けないようなものだ。我々は夜となく昼となく面白くもない暮らしをしている(後略)

(同)

 

 かつて、アイヌが自由に獲ることができた魚や獣が乱獲により数が減り、その上、後から入ってきた和人が勝手に決めた法律によって規制され、違反すると罰金が課せられ、また税金を取り立てられる。

 春の鰊(ニシン)、秋の鮭(サケ)、それ以外の時期には、甚作は地引網漁などをしたが、それでも生活は楽にならなかった。

 甚作は沿海州樺太カムチャッカなどに出稼ぎ漁業に行ったり、土木工事や造林などの出面にも赴いていた。

 甚作はそれらに加え、樺太に熊取りに行くこともあったため、不在がちで、北斗たち子どもの世話は主に養父・万次郎に任せられていた。*4

 のちに、北斗の和人の友人・古田謙二にも、北斗が

 

「漁場に於ける我々の酷使振りはどうだ」

(古田謙二「落葉」)*5

 

と、漁場におけるアイヌの待遇に対して、怒りを発露しており、大正や昭和初期になってもその境遇は変わらなかった。

 

*1  甚作と妻・ハルの間には、長男・梅太郎、長女・ヨネ、三男・竹次郎(滝次郎=北斗)、三女のツネの4人の子どもがいた。(北斗の兄である次男は生まれてすぐに亡くなり、弟である四男の竹蔵、五男の松雄、六男の竹雄はいずれも子どものときに亡くなっている)。

さらに、世帯は別だが、養父・万次郎とその娘らもいた。

*2 違星家は「シリパ岬」の裏側の「ウタグス」(歌越)という場所に「違星漁場」と名付けた漁場を持っていた。(金田一京助から違星北斗へのハガキ、昭和2年4月26日付に「違星漁場」の住所表記あり)。余市郷土史家・青木延広氏によると、船も持っていたようだが、あまり良い漁場ではなかった、という。違星家は自営の漁業者であり、かつ雇われて漁をすることもあったようだ。

*3 松前藩は北海道内を「場所」に区切り、その地域でのアイヌとの交易を、商人に請け負わせた。当初は「オムシャ」と呼ばれるアイヌとの交易を行っていたが、のちに直接的にアイヌを使役して漁業を経営するようになり、地域の行政も差配するようになる。

*4 違星北斗の小学校の通知簿には、保護者名として父・甚作や母・ハルの名はなく、祖父・万次郎の名前が記されている。不在がちの甚作に比べて、「学」のある万次郎が、子どもたちの勉強の面倒も見ていたようだ。

*5 北斗の友人で余市小学校訓導の古田謙二が違星北斗を追憶する手記。「よいち」昭和28年8月号に「違星北斗のこと」として掲載の後、「落葉」に改題されて昭和29年発行の「違星北斗遺稿集」(違星北斗の会)に掲載された。

 

 

●零落のイヨチ城主

 漁労の傍らに農業を行おうとする者もいたが、そこもまた、和人による激しい収奪の現場となっていた。

 

 汗水を流してやっと開拓して得たと思う頃に、折角の野山は、もう和人に払下げられて、路頭に迷っているアイヌも大勢いました。

伊波普猷「目覚めつつあるアイヌ種族」)

 

 そもそも、元はアイヌの大地であったものが、政府によって土地が取り上げられてしまい、わずかに分け与えられた新たな土地も、苦労して開墾した頃に、狡猾な和人に騙され、「合法的に」和人に払い下げられてしまう……。

 こういった和人による詐欺行為は、北斗の周囲でも度々起きていた。

 ここに紹介するレポートは、1914年、大正3年にある新聞記者が、余市のオテナ(乙名、アイヌの指導者)ノタラップ(和名・玉三郎)の家を訪ねた時のものである。

 

 蝦夷松(えぞまつ)の林、楡(にれ)の森、千古、斧鉞(ふえつ)*6の味を知らぬ懐中山に、巨熊の群を呑んでいた。

 余市のコタンに先人コロポクル*7が砦(チャシ)を構え、石鏃、石槍*8を飛ばして高嶋グル*9と戦ったのも今は「夏草や武士どもが夢の跡」と化し、わずかに余市アイヌの後裔四十人が、哀れな末路を大川縁に止めている。(略)

 記者は陰雨煙る十二日の午後(略)玉三郎の家を訪ねた。(略)

 生憎オテナは不在であったが、刺青*10美しいカン夫人が、ぶすぶす燻る、大なる炉辺に、針仕事をしていた。(略)

 壁上にぶら下っている熊の皮、カンジキ、猟銃、オロチョン*11のスキー、アマポ*12等が、蝦夷染みた気分を与えて、心は幾百年の昔に曳かれ行く。

 メノコ*13は清澄な発音で、巧みに和語を交ぜ、同族の哀れな末路を物語る。

 彼らの先祖のいた頃は、大川べりは一面の笹原で、日夜巨熊が出没していて、無造作にアマポにかかる。

 大川橋下などは、鱒が群をなしていたので、これも手掴みで獲れる。

 春は磯一面、鰊の山を築き、秋は鮭で川が蓋になるという時代。

 いわゆる海の幸、山の幸はいたるところに充(み)ちあふれていたのだ。(略)

 そのうちに続々、内地からシャモ*14が渡って来て、木を伐り、山を拓き、田を耕し、だんだん彼らの土地を蚕食して、遂には寸地も余さず、シャモの侵略するところとなった。(略)

(シャモは)最後にオテナの土地に手を触れた。

 さすがは忍路、高嶋にその武勇を誇ったオテナだ、断固としてシャモの侵略を許さなかったが、蜜のやうな甘言に欺かれ、所有の田畑は挙げてシャモの手に帰し、今では狭い土地を借り受けて侘しい暮しをしていると。

 綿々たる大川は怨みよりも深い。

「聴いてみると気の毒な話だね」

「シャモは、ずるい。皆、アイヌをだました」

「どんな工合(ぐあい)に瞞(だま)すのか?」

アイヌには証文がないから、お上(かみ)に願って取るのです」

という、膝には涙の玉が光っていた。

(「小樽新聞」大正3年6月24日「滅び行く余市大川端のアイヌコタン(上)」より)*15

 

 このノタラップ*16の家系は、代々余市コタンの乙名を務めてきた、余市でも最も由緒のある家系である。代々余市の村長を務め、寛文9年の「シャクシャインの戦い」の際に大きな役割を果たした余市の総大将「八郎右衛門」*17の末裔であるという。*18

 一族は、かつてはフルカ(天内山)に巨大なチャシ(城砦)を構えていた。後の時代も、同じフルカチャシの近くに60坪の大きな屋敷を持ち、周辺のコタンから指導者が集まって重要な話し合いはここで行われたという。*19

 イヨチコタン繁栄のシンボルともいえる「フルカチャシ」は、あるいは日高など他の地域のユカラ*20にたびたび登場する、日本海側の一大勢力・イヨチコタンのイメージにも影響を与えているかもしれない。あるいは、和人の記した伝承などではロマンチシズムを込めて “王城”*21などと書かれることもあった。

 そのフルカの城の“城主”の末裔が、先の新聞記事で紹介されたノタラップなのだ。

 この時代(大正3年)には和人に土地を騙し取られて、今は余市の大川の川べりに住み、わびしい暮らし向きとなっていた。

 大正3年というと、北斗が12歳でちょうど小学校を卒業した頃である。同胞で、誇るべき大指導者の一族の「惨状」を憐憫とともに書いたこの新聞記事のことについては、当然同じコタンの同族の耳にも入っただろう。万次郎は、甚作は、そして北斗はこの記事を見ただろうか。そして、何を思っただろうか。

 

 実はノタラップとその一族は、北斗と彼の一族と浅からぬ縁で結ばれている。

 ノタラップは北斗が余市アイヌ文化を学んだ人物の一人であり、その孫は昭和30年代までアイヌの祭祀を行っていた「余市アイヌの最後の伝承者」である。

 そして、ノタラップの祖先は、北斗の《祖先》の命の恩人でもあり、また北斗の遠い祖先でもあるのだ。

 余市の惣乙名・ノタラップの一族は、イヨチコタンの始まりから、余市アイヌの終焉までを貫く縦軸であり、余市アイヌの歴史そのものである。今後、たびたび触れていくことになるだろう。

 

*6 斧鉞 斧(おの)と鉞(まさかり)。

*7 余市アイヌが最初にこの地に来た時、そこには体の小さな人が住んでいたという伝説がある。余市アイヌは彼らを「コロポックル」(蕗の下の人)ではなく、「クルプン・ウンクル」(岩の下の人)と呼んだ。(違星北斗「疑うべきフゴッペの遺跡」)

*8  石鏃、石槍 余市の続縄文時代の遺跡では、石の矢じり、槍の穂先がみつかっている。

*9 高島グル 現・小樽市高島周辺に居住していた一族。

*10 刺青(いれずみ) アイヌの女性は口のまわりに刺青をする習慣があったが、明治3年政府によって禁止令が出されている。。

*11 オロチョン バイカル湖からアムール川流域、中国黒竜江省周辺に住む北方少数民族の名称だが、ここでは厳密に固有の民族を指しているかどうか不明。。

*12 アマポ 仕掛け弓。

*13 メノコ アイヌ語で「女性」のこと。

*14 シャモ アイヌ語で「和人」、アイヌ以外の日本人のこと。

*15「小樽新聞」大正3年6月24日「滅び行く余市大川端のアイヌコタン(上)」より。引用に際して、現代仮名遣いに直し、適宜改行、空白を加え、読みにくい漢字はひらがなに変更した。また原文で強調されていた訛りを標準語に変更した。

*16 ノタラップ 北斗の時代の余市の乙名家系の一人で、「シャクシャインの戦い」における余市の総大将・「八郎右衛門」から数えて7代目(始祖より12代目)の子孫と伝わる。

*17 八郎右衛門 シャクシャインの戦いの際の余市の総大将。ノタラップの家ではその名を「ヤエモン」と伝わる。

*18「ヨイチアイヌの民族「カムイギリ」について」青木延博、『北海道の文化』61号

*19「沖の神(シャチ)とカムイギリ」難波琢雄・青木延広、『北海道の文化』72号

*20「ユカラ」とは、アイヌ口承文芸の一つで、叙事詩。韻文で節をつけて語られる。一般には「ユーカラ」とも呼ばれる。自然や動物の神々や、オキクルミのような文化神を主人公にしたカムイ・ユカラ(神謡、神々のユカラ)と、ポンヤウンペなどの人間の英雄を主人公にした英雄詩曲(人間のユカラ)に分かれる。他地域と同様、余市アイヌにも当然、ユカラは残っていたと思われるが、アイヌ語の形で録音されなかったため残っておらず、日本語で語り直したものがわずかに残っているのみである。

*21  “王城”の表記は小樽新聞 昭和5年9月3日「余市アイヌの伝説 突如王城を襲撃する一団」などにある。もちろん、王政をしいていたわけではないので、“王城”というのは修辞であるが、そこには日本海側最大、道内でも最大規模のコタンを率いていた余市アイヌの統率者であったという事実の投影があるだろう。

 

 

●《楽園》から《奴隷》へ

 和人によって「大地」が奪われ、漁業や狩猟の権利が奪われ、アイヌらしい生活をすることができなくなった時代のことを、北斗は次のように語っている。

 

 コタンがシャモの村になり、村が町になった時、そこに居られなくなった……、保護と云う美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ………、腑甲斐(ふがい)なきアイヌの姿を見たとき 我ながら痛ましき悲劇である。

違星北斗アイヌの姿」)

 

 短い文だが、その中にはその時代に直面したアイヌの悲痛な胸の内が記されている。

 自らの民族を《自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ》と呼び、《我ながら痛ましき悲劇である》と、我のことを客観的に、冷静に分析した上で、自らを《奴隷》と呼ばねばならぬ残酷さ。

 その心境については、想像を絶するものあることだろう。

 また、北斗は《自由の天地》を失ったとも言っている。

 それは彼らが生きて生きた土地や自然といった環境だけでなく、別のものも失ったというのだ。

 人間にとって最も大切なものの一つ……アイヌは「自由」をも奪われたのだ。

 

アイヌ民族の歴史」を語る時に、明治政府による近代の植民地政策における抑圧や差別待遇については語られる。

「明治以降、アイヌ民族は、先祖代々の土地を奪われ、追い出され、生活の手段も失った」といったことだ。

 だが、それはもちろん明治時代に始まったことではない。

 江戸時代に生きたアイヌにとっても、「自由の天地」であったわけではなく、彼らは松前藩によって、彼らの目先の利益のために収奪され、あるいは《消費》された。過酷な強制労働や、強制移住、あるいは女性への非道な行為が行われ、それらが原因となって、人口が減少し、消滅を余儀なくされるコタンも少なくなかったのだ。

 まさに、自由を奪われ、《奴隷》的待遇を強いられたのだ。

 かつて、アイヌ民族の「自由の天地」であったアイヌ・モシリの天地と自由がどのようにして奪われていったか。

 すでに、祖父・万次郎や違星甚作の時代には「自由の天地」は遥かな昔のことであったし、幕末に生きた北斗の曽祖父イコンリキ、イソヲク、イタキサンらの時代においても、楽園の記憶は遠い過去のことであった。あるいは、江戸時代前半、「シャクシャインの戦い」の時代に生きた余市アイヌの英雄たちについても同様であったかもしれない。

 しかしながら、アイヌが「自由の天地」に生きた時代を、和人が残した史料の中に求めることは難しい。なぜなら、北斗がいう「自由の天地」の時代とは、「和人がいなかった時代」にほかならないからだ。

 

 それならば――彼ら自身に聞くしかない。伝承に残る、違星北斗と彼の祖先の余市アイヌたちに直接聞くしかないのだ。

 彼らの目線を通して、いかにして「イヨチコタン」の《天地》と《自由》が失われ、そして、祖先が酷使・収奪され、非道に扱われ……それにどうやって立ち向かったのか。

 まずは、違星北斗が「自由の天地」と呼んだ時代から語り始めてみたいと思う。

 

 

5 《イヨチコタン》

 

●コタンパイガシの漂流

  一人の青年が、木舟に乗って海上を漂流していた。

 夏の太陽の下、喉は涸れ果て、体力を失って、ぐったりと横たわるしかなかった。

 舟を操ろうにも、櫂はなかった。

 櫂は捨ててしまったのだ。

 家族、故郷、財産、日常、未来。

 すべてを失った彼は、運を天に任せ、運命を波と風に預けて、ただ流され続けていた。

 

 青年が生まれたのは、オタルナイのザンザラケップ(現在の小樽市銭函付近)のコタンだった。

 彼のコタンの背後には切り立った崖があり、その崖の下に「イゴロップ」と呼ばれる洞窟があった。イゴロップは、宝物の庫で、そこに一族の宝がうず高く積まれているのだった。

 ある晴れた夏の日、彼らは宝物を洞窟から出して、土用干し(虫干し)をしていた。

 その時、沖にレブンカムイ*22(シャチの神)の群れが通りかかった。

 それを見て、一族の中の愚か者が、あろうことか沖を泳ぐレブンカムイをからかったのだ。

「お前たち、こんなにいい宝物をもっているか? 持ってないだろう!」

 それを聞き、レブンカムイは怒った。

 たちまち神罰が下って、村の背後の崖がガラガラと崩れ始め、家も、宝物も、人も等しく飲み込んでしまい、ただ一人、その青年を残して一族はすべて全滅してしまった。

「なんという仕打ちだ! 我々は、日頃から多くの神を祀り、篤く信仰していたのにも関わらず、このようにたった一人の愚者の一言によって、一族すべてに神罰を与え、全滅させるとは、あまりにも無慈悲だ!」

 青年は嘆き、永年住みなれた「ザンザラケップ」を後にすることにした。

 彼は、小舟(ポンチップ)*23に乗り混み、沖へ漕ぎ出すと、櫂を捨ててしまった。

 生きるも死ぬも天に任せ、海を漂流ことにしたのだ。

 すると、東風(メナス)に流されて、西へ、西へと流れていき、やがて、陸地に山が見えてきた。イヨチのモイレ山だった。

 青年の舟は、イヨチコタンの人々に発見され、「イヨイチングル」*24たちは、「イナヲ」(イナウ)を手に持って振り、上陸するように促した。

 人々に助けられ、イヨチコタンに上陸した青年は、村長(サバネグル)*25に招かれた。

 サバネグルに事情を話したところ、サバネグルはイヨチコタンに住むことを許した。

 青年は、やがてサバネグルの娘と恋に落ち、結婚した。

 イヨチコタンの村外れ(コタンパ)に住んでいたため、「コタンパイガシ」*26と呼ばれるようになった。

 このコタンパイガシと、サバネグルの娘の間には子どもが生まれ、その子孫が、違星北斗の曽祖父・イコンリキの一族である。

 そして、コタンパイガシを救い、一族に迎え入れたサバネグルは、広大なフルカチャシに住み、シャクシャインの戦いにも名前を残すノタラップの一族の祖先であり、その娘の血をひく違星家もまた、彼の子孫であった。

 

*22 「沖の神」の意。通常レプンカムイと表記されることが多い。シャチは海のカムイの中で最高位の神とされ、余市アイヌに「カムイギリ」という魚型のレリーフを作り、他の海の神々とともに祀る。

*23 「ポンチップ」「メナス」「イナヲ」とも元記事の表記による。

*24 余市の人の意。表記は元記事の表記による。

*25 通常は「サパネクル」と表記されるが、元記事の表記に従う。

*26  コタンパは村の上端。イガシは「エカシ」で翁、男性の老人の意。「村の上の方にすむおじいさん」という意味なので、若い頃は別の名前で呼ばれていたはずである。

 

 

●《楽園》としてのイヨチコタン

 このコタンパイガシがたどりついた《イヨチコタン》は、どのようなコタンであっただろうか。

 遥か昔の《イヨチコタン》の姿。北斗はそれを次のように語っている。

 

 海の幸、山の幸に恵まれて何の不安もなく、楽しい生活を営んで居た原始時代は、本当に仕合せなものでありました。

 イヨチコタン(余市村)は其の頃、北海道でも有名なポロコタン(大きな村)でした。此の楽園にも等しいイヨチコタンに(略)一人の若い男がありました。(略)

違星北斗『郷土の伝説 死んでからの魂の生活』)*27

 

 和人の入ってくる前の、あるいは和人に土地や生活の自由を奪われることなく、自由に漁や狩り、交易などをして楽しく、幸せに生活できた、遠い昔の「イヨチコタン」。

 北斗はそれを《楽園》に等しいと言っている。

 

 自然のままに生活していたアイヌは、貯蓄の必要もなかった程、野にも山にも、川にも海にも日用品が満々とありました。

 食うことだけは、心配のない時代、それは北海道の遠い昔のことであります。

 いつもいつもこんな調子で海の幸山の幸に恵まれるものと安心していました。

違星北斗『烏(パシクル)と翁(イカシ)』)*28

 

 イヨチコタンをとりまく自然の中には食べ物にあふれていた。

 秋になると余市川の水面が銀色に染まるほど鮭が遡上し、人々は手づかみで鮭を獲った。

 春になると海が一面埋め尽くされるほどのニシンの群来(くき)があり、海をあふれた鰊が、余市川の河口にまで埋め尽くした。

 近海ではタラ、ヒラメ、カレイ、アワビ、ナマコ、コンブなどが、川ではマス、アメマス、イトウ、ウグイ、カジカなどが獲れた。*29

 彼らは丸木舟を繰り、イラクサやシナ皮で作った網や、鈎銛で魚を獲った。

 山では諸々の果実、山菜、あるいは鹿や熊といった獣を追い、暮らしていた。

 コタンの近くには一面の笹原があり、アマポ(仕掛け弓)を仕掛けておくだけで、熊がとれた。

 川にも海にも鰊や鮭などの魚が溢れ、野山には鹿や熊たちがいた。

 海や川、野山に食料や日用品の材料が溢れ、食べものに対する心配がなく、貯蓄の必要もない。そんな満ち足りた時代のイヨチコタン。

 暮らしに必要なものがあれば、舟を駆って自由な交易によって手に入れる。

 それはアイヌアイヌらしく生きることができた時代だっただろう。

 

 この豊かな大集落・イヨチコタンの噂は、遠方の地域のコタンにもよく知られていたようで、イヨチという地名や、イヨチウンクル(余市アイヌ)の名は、遠く離れた太平洋側の胆振や日高のアイヌが伝えるユカラにもたびたび登場している。

 たとえば有名な伝承者・金成マツの残したユカラの中には、そのまま『余市姫』*30というタイトルのものもある。

 ユカラの中では、イヨチコタンは大きな城砦(チャシ)がそびえる、大勢力を誇る「ポロコタン」(大きなコタン)として描かれ、イヨチ人は、主人公のポンヤウンペと共通の敵と立ち向かう、同盟関係にある強く頼もしい存在として語られることが多い。

 その豊かで大きくて強い「ポロコタン」というイメージは、確かに北斗ら余市アイヌが語り継いたイヨチコタンの伝承とも共通する部分が大きい。

 このような《楽園》の風景は、北斗の童話でいえば、「烏(パシクル)と翁(イカシ)」*31や、「郷土の伝説 死んでからの魂の生活」、あるいは「ローソク岩と兜岩」*32などにも共通しており、いずれもイヨチアイヌの生活圏の中に和人がいない時代、もしくは生活に介入してこない時代を舞台にしている。

 

*27 初出「子供の童話」昭和2年6月号。若くして妻を失った男が、妻に似た女を追って余市のシリパ岬の洞窟の先にある死者の国に行く話。

*28 初出は小樽新聞 昭和3年2月27日。やさしいお爺さんが、なけなしの食べ物をカラスにあげたところ、カラスが鯨の漂着を教えてくれる話。

*29 水産物などは『余市漁業発達史』(余市町)による。

*30 金成マツ・筆録、金田一京助・訳注。トミサンペツ・シヌタプカ生まれの勇者ポンヤウンペは、敵対するレプンクルとの戦いの中で、イヨチコタンの指導者ヨイチ・ウン・クル(余市人/余市彦)と、その若い娘イヨチ・ウン・マッ(余市姫)と出会い、やがてポンヤウンペはヒロインと恋に落ちる。(『ユーカラ集』6、三省堂

ちなみに通常ポンヤウンペの出身地のトミサンペツは浜益に比定されることが多いが、余市の伝承の中にはトミサンペツを余市の近くと伝えるものもある。これは他地方の伝承を自らの生活地に引き寄せた可能性もある。(「《秘伝》イヨチポロコタン物語り」沢口清、伝承・梅津トキ、『余市文芸』8)」

*31「烏(パシクル)と翁(イカシ)」は大飢饉の時の話であるが、本来豊穣な社会だからこそ、訪れた飢餓状態の悲惨さをより引き立てる形になっている。『違星北斗遺稿 コタン』(希望社)に収録。

*32「ローソク岩と兜岩」は、ある若者が女神から剣と兜を得て、海の魔物と戦う英雄物語。その剣と兜が余市沖のローソク岩と兜岩という奇岩になったという。初出は不明だが、北斗の知人鍛冶照三の『あけゆく後方後志』に「余市に伝わるアイヌの伝説(違星北斗の記述から)」とあり、北斗が何らかの媒体に発表したものを同書に収録したと思われる。

 

 

●イヨチコタンの戦い

 イヨチコタンには、ときには招かれざる者が現れた。

 ある時、武装したアイヌの一団が、余市の山から川伝いに一気に駆け下り、突如、フルカチャシを襲撃した。*33

 この一団は、日高の沙流周辺から来た「トパットゥミ」*34の集団であった。

 敵襲の報を受け、イヨチと周辺の各コタンから、屈強な男たちが手に手に武器を持って駆けつけたが、その時には大将でありフルカチャシの城主でもある村長(先述のノタラップや八郎右衛門の祖先)の後頭部、兜と鎧の間に、深々と敵の矢が突き立っていた。

 大将を失い、イヨチ軍の意気は消沈し、フルカチャシは襲撃者に占領されようとしていた時、人々の祈りが通じたのか、突如、ペツセンカ(河岸の突き立った上の意の地名)方面より土地の守り神であるチカップ(梟)の「コタンカムイ」が現れた。

 コタンカムイは両の翼を猛然と振ると、多くの敵がたちまち命を失い、あるいは重症を負った。

 戦況は一気に逆転し、イヨチ軍は勝利を得たのだった。

 戦に生き残った敵の沙流アイヌは降伏し、やがてイヨチコタンに永住することを許された。彼らは「ユウベトングル」と呼ばれ、その祖「サルマイガシ」を崇拝している。

 その後、チャシの中に住んでいた人々は、モイレやハルトリに移住し、コタンを構えた。

 違星北斗の祖先が漂着したのもこの時代であるという。

 

 北の海からやってきた「レプンクル」*35がイヨチコタンを襲撃してくる話もある。

 ある冬、イヨチの北西に横たわるシリパ岬のウタンクシ*36という場所から、北方のレプンクルがなだれをうって攻め込んできた。

 イヨチのアイヌたちは、一旦はレプンクルの侵略に危機を迎えるが、イヨチの周辺地域から援軍がかけつけ、見事にレプンクルに勝利し、イヨチを防衛する。

 生き残ったレプンクルは、イヨチの村長に懇願する。

「私たちは、六日六夜かかってここまできました。我々が住んでいたところは、冬が長く、大地は凍りついていて、食べ物が少ないのです。どうか、この豊かで食べ物のあるコタンに住まわせていただけませんか」

 それは、あまりにも身勝手な申し分だが、イヨチの村長は、その願いを聞き入れて、レプンクルを許し、彼らを村に迎え入れる。

 違星家の祖先はオタルナイから、シャクシャインの戦いの際に活躍した老将ケフラケの祖先はオタスツから移住してきた。襲撃者である日高からのユウペトングル、北の海を越えてやってきたレプンクル……イヨチコタンは多く人々が移住し、融和することで大きなコタンに成長していったのであろう。*37

 

 このように、北斗が書き残した伝承の中、あるいは他の地域のユカラに描かれるイヨチコタンは、外から来た者たちが羨ましがる、豊かな《楽園》として描かれる。

《楽園》の時代。それはアイヌが北海道の大地と海を縦横無尽に駆け巡ることができた《楽園に等しい》時代の物語である。

 そこには、和人の姿は見えない。漁や狩りを禁止したり、税金をとったり、上前をはねたり、ごまかしたり、土地を奪ったり、強制的に住居を追い出されたり、自らの欲のためにアイヌを虐使したり、女性に乱暴をしたりという、《楽園》にふさわしくない行いをする者の姿はないのだ。

 この《楽園》の時代が、実際には歴史上どの時代にあたるかは、諸説あって定まらない*38が、やはり、そういった時代が確かにあり、それが伝承に反映されているのだと考えたい。

 そして、違星北斗という一人のアイヌの中に、このような心象風景があるということを共有しておきたい。

 

*33 北海タイムス 昭和5年9月3日「余市アイヌの伝説(上) 突如王城を襲撃する一団イヨイチコタンの戦」より。伝承者は北斗の兄、違星梅太郎。沙流アイヌの襲撃の伝承の際に加勢したカムイは梟のカムイではなく、雷のカムイであったという別の伝承もある。なお、文中の「コタンカムイ」は、引用元に従ったが、「コタン・コロ・カムイ」(村を守る神)と表記されることが多い。

*34 夜襲、群盗、あるいは「鏖殺戦」と表記される。山中に潜み、夜になると集団で他の地方のコタンを襲撃して、コタンを皆殺しにして宝物などを奪う。

*35 「沖の人」の意。レプンクルは北海道より北に住む他の北方民族、あるいは大陸の人々であろうと思われる。

*36 ウタグスとも。歌越。シリパ岬にある地名で、「断崖の上にさらに重なった山のあるところ」の意。後に違星家が「違星漁場」を置いたのもウタグスである。

*37 「余市文芸」第8号「《秘伝》イヨチポロコタン物語り」(沢口 清、伝承・梅津トキ)「アイノユカラ(英雄詩曲)“シリパオ聖台地物語”ウタンクシの戦い」。余市に襲来したレプンクルと「勇者トミサンペ」が戦う物語。余市に類話がみつからないため、比較的新しい時期に他の地方の伝承の影響を受けたものであるかもしれない。

*38 和人の支配を被ることになる1669年(寛文9年)の「シャクシャインの戦い」の終結より以前であることは間違いないだろうと思う。

 

余市――間違われた名

  違星家の先祖コタンパイガシが、シャチの神に追われ漂流の末にたどりついたコタンは、北斗が「自由の天地」とも「楽園に等しい」とも呼んだ時代のイヨチコタンだった。豊かな自然に抱かれ、生きるのに不自由せず、アイヌアイヌらしく、誰かに支配されたり、束縛されたりせずに、自由を謳歌できた時代だ。

 いつまでも続くと思っていた、そんな《楽園》「イヨチコタン」の時代は、やがて失われていく。

 和人によって《発見》され、イヨチコタンは「ヨイチ」(余市)という過たれた名で呼ばれるようになってしまう。

 それは和人にとっては「良い地」に通じ、良い名前に思えるかもしれない。だが、それはアイヌにとっては間違った名前、改ざんされた名前であった。

「イヨチ」が和人にとって「良い地」となった時、そこは《楽園》でも《自由の天地》でもなくなり、アイヌにとっては暮らしにくく、生きにくくい地になってしまったのだ。

 違星北斗は和人が入ってくる前の時代、《楽園》としての「コタン」の伝承を語る時、「イヨチコタン」と呼ぶ。一方、和人が入ってきた後の時代のコタンを「余市(ヨイチ)コタン」と呼んでいる。

 違星北斗ら、アイヌの伝承者の多くが、両者を明確に区別して、時代によって書き分けていることに、留意すべきだろう。

 その後、「余市」のコタン、「余市アイヌ」の運命は変転に次ぐ変転を迎えることになる。

 15世紀の「コシャマインの戦い」の頃には、「余市」には、和人の流入が進み、隣り合わせに暮らすようになっていた。

 和人は海岸線に沿って、日本海側は余市まで、太平洋側は鵡川まで進出してきており、たびたび摩擦を起こすようになっていた。

 それが爆発した「コシャマインの戦い」では、余市アイヌはその他の地域のアイヌと連携して蜂起し、その結果、和人を北海道の南端、渡島半島松前にまで追い出し、ある程度の自由を回復することに成功する。

 やがて、松前藩が成立し、江戸時代前期の寛文9年(1669年)の「シャクシャインの戦い」に際しては、総大将・八郎右衛門(ヤエモン)や気骨の老将ケフラケらの余市アイヌの乙名たちが立ち、そして戦の終端において重要な役割を果たすのだが、それは余市アイヌだけでなく、アイヌ民族全体の運命を左右することになってしまう。

 やがて、「シャクシャインの戦い」の後、和人の場所請負人の「支配」の元で、漁労に従事せねばならなかった自由なき時代、北斗自身の言葉を借りれば、《自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされた》時代に入っていくのである。

 《楽園》のイヨチコタンを失った余市アイヌたちは、交流の時代を経て、闘争の時代、そして暗黒の時代へと向かうのである。

 

 次号、違星北斗の祖先、余市アイヌの乙名たちが、この時代の変化の中で、どのような境遇に置かれ、どのように行動したかを追ってみたいと思う。

(つづく)